雑音/漫画版源佐久




 帝国学園には似付かわしくない旧式のラジオが、ロッカールームにハスキーな歌声を届けていた。誰が置いたのだか、いつの間にかそこにあって時折鳴っている。これをつけた辺見はとうに練習に向かっていってしまった。したがって、必然的に俺がそれを消す役割を担ってしまっている。

 特殊な形をしている制服を脱ぎ去り、洗われたユニフォームに袖を通す。何の気なしに雑音でしかなかった曲の、言葉がするりと脳内に流れ込んでくる。ありがちなラブソングだと思った。二度目のサビへ入る前に、俺は着替えを終えて出口へ向かう。その途中で電源を落とす。ブチンと絶えたメロディーは、残響さえもなく無惨に消えてしまった。

 ロッカールームをあとにして、練習場へと向かう道の途中、出口まであと少しという直線で佐久間を見掛けた。壁に背を預けながら、後ろで手を組み、つまらなそうに口吻をつきだしている彼が、ややあって俺の存在に気が付いた。

「源田」
 表情を明るくして駆け寄ってくる相手に、自然強張っていた顔が和らぐのを感じた。一回り小さい彼を腕の中へ閉じこめてしまいたい願望が募る。佐久間は脆く幼い。その部分ごとこの両手で守ってやりたいと思うほどには、俺は佐久間への想いを募らせていた。彼の無意識の甘えは、俺の中の道徳心をも緩やかに溶かしてしまう。いつの間にか傾いていた佐久間への気持ちはそれこそ幼く、いつでも俺の手に余るものだった。

「どうしたんだ?こんな所で」
「待っているんだ、鬼道さんを」
 ぶつん、何かが途切れる、あの音がした。佐久間は鬼道に陶酔している。その形がどんなものであれ、その事実は俺を蝕み、確実に呑み込んでいった。寛容になれない自分が腹の中で疼いている。俺は、鬼道有人という存在に勝ち目を見出せていない。ゆえに焦燥的なる。

 「そうか」と呟き、そのまま佐久間の前を過ぎていく。不思議そうな顔をしているあいつは何も気付いていない。何も分かっていない。

 その日の練習においても、この心はざわめいたままだった。恋が美しいとはどこの世迷い言であろうか。俺にとってはただ泥臭く、汚い、腐敗した感情でしかない。鬼道と楽しそうに話す佐久間。鬼道のあとを嬉しそうについていく佐久間。鬼道に甲斐甲斐しくタオルを渡す佐久間。物憂い苛立ちが、俺の中を始終締め付けている。練習中、延々と脳内をかけるあのハスキーな歌声が、幾度も途切れて場面が展開する。

「鬼道」
 パスのつもりが全力で蹴っていた。しかしGKである自分のキック力など、さして威力はないのだろう。鬼道は軽々とそのボールを片足で受け止めた。

「練習に、付き合ってくれ」
 その言葉に口角を上げた鬼道は、容赦なく打ち込んでくる。俺は帝国レギュラーのシュートでさえもほとんどセーブする自信があるし、練習でも成果を見せている。大体脳内で相手のシュートを止める自分を想像してから自然、体を動かすのだ。しかし、この男のシュートだけはいつも読めない。自分が彼の蹴ったボールを止める姿が想像できないのである。たとえ彼のシュートを止めたとしても満足ができない。それはなんだか、まぐれでしかないような気分になるからだった。

 彼にとっては軽いのであろうシュートを何とかキャッチすると、間髪入れず次のボールが飛んでくる。大きなサイズのボールカゴを持ってこさせた鬼道は、その一山が終わるまで立て続けにシュートを打ってきた。走り込み以上に辛い、GK用のメニューの筆頭にある練習だ。持久力がないものは足がもつれて全てを終える前にダウンする。よしんば最後まで立っていられたとしても、左右上下に蹴り込まれるボールに対応できない。しかも今回ボールを蹴っているのはあの鬼道である。並のFWでは適わぬほどキック力と、抜群のコントロールでギリギリ届くか届かないかの場所へ蹴り込んでくる。次のボールに反応するため、基本的に弾く形でセーブしていく。いつの間にか脳内の雑音は消え、意識が鮮明になっていく。

 俺は無論、仲間として鬼道のことが好きだ。そして尊敬もしている。帝国学園は彼がいて全て成り立つ。友人としての付き合いも悪くない。俺はアイツと相性がいいと感じている。だからこそ、俺は自分が許せない。幼い嫉妬を募らせて、行動の端々にそれを示して。自身、何がしたいのか、何をすれば満足なのか分からなくなる。聡い鬼道は気付いているのかもしれない。恋愛に関して鈍いのならば、気付いていない可能性も勿論ある。佐久間が好きだ。鬼道も好きだ。どちらも好きという感情だが、性質が違う。上も下もない。ただ、嫉妬は鬼道に向かっていく。それは、鬼道への友情が佐久間への愛情に劣るからではない。この俺の、醜い揺らぎのせいなのだろう。陳腐なラブソングの数十倍、俺の想いは泥臭い。

 酸素不足に喘ぐ唇を噛み締めて、棒のように動きの鈍い足に力を振り絞る。鬼道の放った、最後のボールが視界の端を通っている。たった今追っていったボールと反対の方向である。右足を踏み出して体の勢いを止め、それを利用して反対側へと飛ぶ。体のバランスを崩しながらも、左足で堪えて更に飛ぶ。汗が目に入っても、そのボールからは目を逸らさない。歯を思い切り食いしばる。意地だった。どうしても、という願望だった。少し後方へ飛びながら、何とかそのボールに触る、腕ごと前に押しやる感覚で勢いを殺し、もう片方の手を伸ばす。体で転がるようにしてボールをキャッチしたが、背中や肘を強かに打ち付けてしまった。それを抱きながら立ち上がれずに呼吸を繰り返す。痛みよりも酸素不足の方が重大だった。自然、自嘲が零れる。この数を打ち込んだ鬼道は息一つ乱さず、俺を見下ろしていた。どんなにがむしゃらになっても、彼は俺の遥か前を歩いている。

 既に練習を終えているにも拘わらず、かなりの人数が残っていたらしい。ようやく余裕が戻ってきた俺は、広がった視界の中に佐久間を認めて瞳を逸らした。上半身を上げ、速やかに片付けを始めた二軍へボールを投げると、滴る汗を袖口で拭った。気配を感じて顔を上げる。差し出された鬼道の手を引き、相変わらず鈍い足で何とか立ち上がった。平衡感覚が崩れるほどには疲れ切っていた。なにせ、ただでさえハードな練習の後の特訓である。

「相変わらずタフだな。スッキリしたか?」
「まあな。感謝する」
「礼には及ばないさ」
 踵を返した彼の動きに合わせて、その深紅のマントが揺れた。それを目で追いながら、側のボールを球拾いのメンバーへ送ってやる。

「おい」
 鬼道のあとを追っていったのだとばかり思っていた佐久間の声がして、俺は僅か硬直してしまう。

「源田」
 そちらを見ない俺に痺れを切らしたらしい佐久間が、わざわざ回り込んでくる。自然、上目遣いになっている佐久間が、俺の手を掴んだ。

「足、冷やした方がいいだろ?」
 そう言ってベンチまで俺を誘導した佐久間は、わざわざ冷却スプレーを取り出し、俺を座らせた。気を取り直して靴を脱ごうとするが、佐久間に先手を打たれた。跪き、紐を解いて靴を脱がせ、靴下までをも取り去る。佐久間の指が、手の平が俺の足に触れている。足が二本あることに喜びを感じるほどには倒錯的になっていた。ひんやりとした冷気を感じながら、下を向いていることによって長い睫毛に遮られている瞳を眺めた。踵を持ちながら、足を動かした佐久間は「痛くないか?」と問う。何も考えられない頭は勝手に首肯しており、次の瞬間相手が浮かべた笑みに余裕を失ってしまう。

「あんまりさ、無理するなよ」
 冷却スプレーを道具箱の中へ戻した佐久間は、自分の荷物を引っ張りながらそう言った。

「鬼道を占領して悪かったな」
 自然零れた言葉に、俺自身動揺を、した。はっとして、少し下を向いていた視線を戻すと、滅多にしない顔を、佐久間はしていた。

「源田のばか野郎」
 何が気に入らなかったのか、佐久間は完全に怒りを表していた。そっぽを向いて、歩き出してしまう相手を見つめながら、考える。その手を引いて抱き締めて、形の良い唇に接吻を降らせて愛を囁いたら。全く場違いである。結局甦ったあのメロディーに掻き消された妄想は、更に踵を返した佐久間に打ち消される。

「ボール止めてるお前が格好いいとか思った俺がバカだったよ!でもそれ以上にお前はばかだ!」
 嫌味を言ったつもりなのだろうか、佐久間は怒ったままで再び歩き出してしまった。普段、あまり変化しない顔も、今はさすがに紅潮しているだろう。両手で押さえながら今更になって疼く足の痛みに、甘い微酔を味わっていた。


2010/12/19 Sun 23:46