Blossom/バメル兄×バメル弟


 父の、兄への小言や叱咤は留まるところを知らなかった。エスカは兄を憎んだ。家族を裏切り、なによりも自分を裏切った兄を憎んだ。それでも、歳の離れた兄を、エスカが深く慕っていた事実は消えることはない。どんなに憎んでも、父の、兄への暴言に痛む心はキリキリと悲鳴を上げていた。

 次男として生きてきたエスカはその時から決意を改めた。自分は、兄が空けた場所を実力で勝ち取り、更にその上を目指していく。だから、だからどうか。その先を、心の中にさえ浮かべることを憚りながらも、戦場にある者独特の、鋭い眼光を失った兄を見遣りつつエスカは父に宣言した。
「俺を、王牙学園に入れてください」



 兄が家を出たのは、エスカが王牙学園への入学を認められ、華やかに入学式を終えた、その日だった。今まで、兄にばかり期待を寄せていた父が、手の平を返したようにエスカに厳しくなったり、期待をかけるということはなかった。それまで完璧に、自分と同じ道を歩んできた長兄への、父の妄念はそう簡単に消えないとエスカも理解している。
 しかしながら、選ばれた人間しか通うことのできない王牙学園に、家の金銭的な支援だけでなく、エスカの能力もあって入学したことにより、初段階の地位を、エスカは父の中に確立していた。
エスカは兄のようにはなるまいと心に誓った。そのためにまず、軍人育成で名門の聞こえの高い、王牙学園への入学を決意したのだ。

 家族内の不協和音は耐え難いものであった。母は前々から兄に、家を出ることを勧めていたが、彼はどういう訳かエスカの入学を待つような形で、しばらくただ黙って父の苦言を呑み込み続けていた。その姿は、エスカの中に今も、鮮明に浮かび上がってくる。


***


 任務失敗というレッテルを貼られて始めて、エスカは立ち止まっていた。今までは猛進するしかなかった道が突如、様々に枝分かれしたのだ。
 多くの問題を抱えた提督以下の関係者達は、後処理に相当の時間を費やしていた。その分、極秘任務に携わった生徒達には、いっそ憂鬱なほどの時間が与えられてしまったのだ。

 人の数倍頭の切れるバダップでさえも、少々の間思うところがあったようだ。しかし先達て円堂守という存在に触れて、納得した結論は変わっていないらしい。エスカは、漠然として横たわっているその答えをバダップに求めることはしなかった。
 バダップの思想に、エスカは協賛することを決めている。しかしながら敢えて問う。強さとは一体何なのだろうか。円堂守の言葉を反芻するも、エスカには結局完全には呑み込めずにいる。エスカは強くならなければならないのだ。強さを目指さねばならないのである。

「勇気」
 口に出した言葉は空気に拡散していくだけで、具体的な指標を示してくれるわけではなかった。最終的に思い悩んだエスカが向かった先は、全ての始まりである兄の元であった。

 聞いていただけで訪れたことの無かった住所を辿って、着いた集合住宅の一室に懐かしの兄はいた。吐き気がするほど庶民的で、堕落的な場所だった。公園の一角で隠れるように少年達が蹴るボールから目を逸らし、立ち竦んでいる兄を再度見上げた。

「久し振りだな、エスカ」
 驚くほど平静な彼は、エスカを部屋へ招き入れた。そして椅子も勧めず、すぐさま訪問の理由を問うた。エスカは無意識に下方へ向けていた視線を戻しつつ、広い相手との距離に息を呑んだ。

「聞きに来た。アンタが、こうなった理由を」
 平淡すぎる声を聞きながら、兄は真っ直ぐにエスカを見つめ、静かに嘆息した。幾度も両親から問われてきたその言葉を、エスカが使ったのは初めてのことである。



 かつて、エスカの世界は兄を柱に構成されていた。両親や周りの期待を一身に背負いながら、それでも伸びきった背筋で悠然と進む兄はどんなヒーローよりも輝いていた。飽きることなく兄に付いて回った。エスカの数倍の習い事や武術訓練を行う兄の真似を、毎日していた。エスカにとって、模倣を意味するごっこ遊びの題材は、いつでも兄であったのだ。

 その兄がいきり立った父に貶められる度、自分の中の、完璧な兄の肖像が崩れていくのに耐えきれなかった。ゆえに、自分自身で兄を否定し、詰り、軽蔑した。自分以外の誰にもその権利はないと、傲っていたからかも知れない。もしくは、それこそが兄への執着だったのだろう。たとえ父であろうと、自分の正義であった、理想であった、目標であった、兄を汚すのは我慢がならなかった。

 されど、自分の理想の具現である兄を真っ向から否定するのは、エスカにとって何よりもの苦痛であった。だが世界を揺るがしたこの出来事の発端は兄である。誰よりも兄が責任を負うべきなのは自分に対してなのだという、利己的な思考が自分を王牙学園に押し上げたと言っても過言ではない。自分が両親の目指した「理想の息子」に成り代わることによって、その心の隙間を埋め、同時に、彼らの長兄への妄念を打ち消していこうとしたのである。自分だけが、兄を非難しえる。兄を見返すことができる。自分を裏切った兄への、報復の権利を得るのある。

 無論、家族の再生も根底にはあった。だがしかし、その上で、兄には一生をかけて自分への引け目を感じていてほしいという感情が、エスカの中には確かにあった。それは彼にとって全くの無意識である。かつて、追いかけるだけの存在であった兄を見失った今、彼の姿を捉え、自分に目を向けさせるのが、唯一その自尊心を保つ術だったのだろう。


「答えろ」
 掴み掛かってくるエスカに、壁へと追いやられながら、彼は己の弟を見下ろしていた。まだまだ細い、成長途中の、未熟な体だ。若い精神は柔軟でかつ、酷く脆い。彼は思考を巡らせた。それはいつだって弟のために動いている。今、悩める彼に自分が与えるべき解を模索していた。

 彼は、自分の選んだ道の根本にある、決断を否定することはできなかった。父に似て、融通の利かない頑固な部分があるからだ。それでも、エスカは違う。母に似た、柔軟性も兼ね備えている。自分では成し遂げられなかったことも、エスカにはできるかもしれない。そう結論づけて、彼はエスカが王牙学園に入るのを、最終的には悲観せずに見届けることができた。

 彼は多くを失った代わりに考える時間を与えられた。肩身が狭くなった分、世界は格段に広くなった。その時、彼の目にはエスカの姿が映っていた。彼はエスカの、自分への執念を遥か昔から知っていた。しかしその具体的な形を、初めて真っ向から捉えたのである。


「答えてくれ……」

 襟を掴んでいたエスカの力が次第に弱まっていった。多くのものを失った。権利すらも失った。それでも、責任だけは手元に残っている。そして何よりも、失った多くが惜しくないほどのものを、彼は実質今、手にしているのだ。
 エスカの細すぎる首筋に両手を当てた彼は、悩める弟を見下ろしながら目を細めていた。

「いい顔だな、エスカ。お前のその顔に免じて、質問に答えてやるよ。正直に。ただし一つだけだ。……なあ、エスカ、本当に聞きたいことは、それでいいのか?」

 本当の意味での、この男の弱い表情という物を、エスカはついぞ目にしたことがない。どんなに父に詰られ、母に泣き言を言われ、世間に冷ややかな目で見られようとも、彼は臆すことなくそこに在り続ける。無気力と言ってしまえばそれきりなのかも知れない。けれど、今エスカは真正面からこの男と対峙して、かつて自分が彼に感じていた憧憬の一片を思い起こさずにはいられなかった。

 首に触れるその手の温度は確かなものなのに、どこか消え入りそうな印象がエスカの心を締め付けた。自分と同じ、深い色の瞳に真っ直ぐ見つめられると、その後ろから離れなかった幼い頃のように、全てを明け渡してしまいそうになる。現に命を握られているような格好でも、エスカは抵抗せずに彼にされるがままになっている。

「兄さん」
 催促するように、ゆっくりと気管が閉まっていく。それは最早、愛撫に近いものであった。獣のじゃれあいのような、仕草であった。

「兄さんは、俺を棄てたのか」

 エスカは揺れていた。奥底に眠る、兄への想いと、課せられた、恨まなくてはならないという義務感の間で揺れ動いていた。恨むことでしか自分を保てなかった。世界の全てであった兄に棄てられた自分の、行く末が怖ろしくて仕方がなかった。だから聞けずにいた。だから恨みで覆い隠した。結局弱い。自分は弱いのだと、エスカは悔し涙を落とすしかなかった。
 兄は、エスカの首から手を離すと、その両手で相手の頬を捉えた。良くできました、とでも言うような、出来の良い弟を誉めるような、そしてそんな弟が自慢であると誇っているような、そんな表情をして。

「俺がお前を棄てるわけがないだろう」

 息を詰まらせて声を呑み込んだエスカは、甦ってくる様々な記憶に押しつぶされそうになっていた。抑制していた感情の波が、抑圧していた弱さの群が、どうしようもない安堵を交えてエスカの中を満たしていく。最早エスカには、相手にぶつける言葉の余裕一つ残ってはいなかった。

「……お前が、いずれここへ来ることは分かっていた。どうあれお前は強いからな」

 彼が出会った出来事や、感じてきたこと、 様々なことを押し留めて、見て見ぬふりをしてやり過ごしてきたこと、またいくつもの経緯を聞かせても、気持ちを詳らかにしても、戦地を去った理由を暴露しても、結局はエスカ・バメルという人間にとっては何の意味もないのである。
 彼は、酷く頭の良い人間であった。思えば、頭脳ゲームでエスカが彼に勝ったことはついぞなかった。それは、彼が思考すべきことと、無駄なことを判断できる人間であることも表していた。最終的に残った、彼にとって必要なことはエスカの、その執念であり、エスカにとって必要なことはその執念の在処なのである。

「それが、答えだ、エスカ」

 チェックメイト、と言われた気がした。盤上で躍っていたのが自分のような気がしてならなかった。兄は、人生の落伍者で、ただの弱者なのだろうか。結局巡り巡って、エスカが抱いたのは兄へのより一層の執着心だった。それすらも計略されていたようで、僅かな羞恥が灯った。

「半信半疑だったが、まさか本当に、お前が兄貴離れできないとはな」
「!」
 どれ位ぶりか分からない、兄の笑い声を聞くのは。くすくすとした、特徴ある艶美な声に顔を上げたエスカは、苦い顔つきをし、次の瞬間優位を取り戻したように口角を上げた。

「兄さんも、その年で弟離れできないのはどうかと思うぜ」
 先程まで愛おしげだった眼光が信じられなくなるほどの殴打を受けながら、厳しかった兄の片鱗を思い出して、エスカは声を立てて笑い始めた。

「図星ってことか」
 もう一打喰らいながら、今度の攻撃は身を引いたことで衝撃を和らげた、その事実に少しだけ優越感を噛み締めた。

 結局自分は弱いままだったことを思い知らされた。兄の元へ訪れなかったのは、兄へ理由を聞かなかったのは、全て、自分が弱く、幼かったからだったのだと。バダップにディベートで打ち負かされたとき、自分の意固地が無くなっていったのだと思っていた。しかしどうやら、それは思い違いだったようだ。ただ、自分の足で兄の元へ訪れた、それだけで今まで渇望してきた強さというものが僅かにも知り得たのがおかしくて、気が抜けてしまうのだ。円堂守の示した場所の意味が、言葉が、すんなりと自分の中へ入っていった。エスカは笑っている。気の抜けた、どこか間抜けな笑い声だ。

2011/3/8 Tue 15:05
Blossom:俺の手の中に、おかえりエスカ

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