君との明日/浜野+速水


 速水は昔から、人よりも少し運動神経が良かった。その代わり、人よりも少し考え方が悪い方向へむきやすかった。頭も悪い方ではなかったが、性格や性質が災いしてか、小学校では嫌な思い出のいくつかがあった。サッカーの名門である雷門中学校に入学して、サッカー部の入部試験に合格しながらも、これから始まる中学校生活への期待感は、他の者のように高まったりはしなかった。速水は友達というものの概念が、人よりも少しシビアだった。人は集団でいることを好むと彼は知ってなおかつ、それをどこか悲しい瞳で見つめていた。彼はサッカー部の仲間が嫌いではなかったが、サッカー部という集団がこの囲いや関係性を作っているということをいつも、頭のどこかで考えていた。

 時間は遡り、入学式の前、親と連れだってやって来た説明会で、速水が初めて話した同級生は浜野という少年だった。封筒に入った沢山の冊子やプリントを取り出しながら、説明会が始まるまでの間暇を過ごしていると、隣のパイプ椅子に少し騒がしい彼が座したのである。

「あれ?俺、書くもの持ってない……」
 プリントの記入欄を見つけた浜野は向こう側に座った親に「なんかある?」と聞いていたが、渋い答えを返されていた。ふと親切心で筆記具を貸そうかとも思った速水だったが、知り合いでもない相手に、しかも他人の領域にどんどん入ってきそうな雰囲気のこの男に話しかける勇気はなかった。結局押し黙ったまま、予定の時刻になるのを待っていたのだが、浜野の方は容赦なく話しかけてきた。

「書くもん持ってない?」
「……どうぞ」
 手に持っていたボールペンを渡し、礼を言う相手から目を離したままにしていたのだが、相手はそんなことはお構いなしに次々と話しかけてきた。「名前は?」「どこ中?」「どこら辺に住んでる?」そういった質問形式から、いつの間にか彼自身の話になっていく、その流れを聞きながら、速水はこの男が少し許り苦手だと感じていた。拒絶するように端的に返しても、全く怯むことなく話を続けられるのは、ある意味特出した能力だろう。だが、デリカシーというものには欠けている。

「部活、どこ入るか決めた?」
「……サッカー部です」
 そう答えたことを、速水は直後に後悔した。いきなり両手を掴んで引き寄せられ、相手の顔を見つめる形となった速水は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる浜野を初めて間近で目視したのである。

「俺も、俺も!」
 同じ部活に入りたいとする仲間が、偶然隣に座っていた奇跡に喜ぶ浜野だったが、速水はどこか冷静に、この学校に入った生徒の大半はサッカーに興味があるものだろうという考えを巡らせていた。そして、ボールペンと一緒に渡された海鮮塩味という飴は、一層浜野という人間を不可解にしたのだった。

 雷門中では年に数回、レギュラー選抜が行われる。三年生卒業の折には数人変更になることもあるが、大概はあまり変動がない。皆雷門中サッカー部レギュラーに憧れてこの門を潜ったのである。幼少期に観た、イナズマジャパンの活躍や雷門中の優勝劇、そしてその卒業生達の活躍、そういったものに感化された少年達は、躍起になって一軍入りを目指すのである。たとえ行われる試合の数々が今や、勝敗の仕組まれた空虚な寸劇であっても。

 速水は説明会で出会った浜野と、同じクラスでもある倉間と共にいることが多くなっていたが、共にいるというだけで、幼なじみの神童と霧野のような親しい間柄を自分たちの間には抱いていなかった。一緒に出かける機会もあるわけではなく、学校で形成しなくてはならない集団、仲間としての意識が強かった。それでも、特に浜野は人懐っこく速水に友情や好意を寄せてきた。それが重荷だったのは、友人というものをそのまま信じ切ることが、速水にはできなかったからである。

 レギュラー選抜によって、速水が繰り上がり、三人の内で一人だけレギュラーに抜擢された時に彼の心模様はすっかり変化していた。名前を呼ばれた時、真っ白になった頭の中が、じきに回転しだしても純粋な喜びに充ち満ちていかなかった。その日は様々な説明があったり、新しいユニフォームを受け取ることになって、二軍の部室から荷物を運び出した。一人で一軍のロッカーへ荷物を入れる時に、レギュラーから落ちてしまったメンバーが咽び泣いているのを見、喜びは益々圧せられてしまった。

「よろしくな」
 そう言って声をかけてくれる一軍メンバーの中に、浜野や倉間がいないことに、速水は漠然とした不安を抱えていた。ここには、当然のように一緒に帰ろうと手を引くあの二人がいないのである。一足先に帰宅した浜野と倉間に会わないまま、家路についた速水は、あの二人に対して抱いていた友情が、自分が自覚していた以上に大きいことを知って焦りを抱いていた。バッグの肩掛けの紐を握りしめながら、暮れゆく町並みを足元だけ見つめて歩く。こうして前を向かず、俯いて歩くのは久々だった。浜野と一緒に帰るようになり、そこに倉間が加わってから、速水はいつも二人と同じ景色をみていたのである。

「きっと、友達じゃなくなる」
 いつも明るく元気な浜野が、レギュラーとしての名前を呼ばれなかったときに浮かべた表情を、速水は思い出して胸を痛めた。サッカーへ情熱を注いでいる倉間が、どんなに悔しい思いをしているか、想像に難くはなかった。二人だけの帰り道で、浜野と倉間は何を話したのか、良い想像はできない。

 消極的な速水が、サッカーを始めたのはずっと幼い頃だった。世界で活躍し、世界を相手にする日本人選手たちの、中学校時代の映像を観ながら彼らしくもなく、フィールドで駆ける夢を見たのだった。誰よりも上手く、才能溢れ、天才的なプレーをできるわけではなかったが、努力を積み重ねることによって速水はどんどんサッカーの腕を上達させていった。今やそれは、名門雷門中サッカー部のレギュラーになれたことではっきりとしたけれど、速水自身その自覚はあまりなかった。ただ、自分には無理だと否定するのに、どうしても超満員の観客席に囲まれて、地響きのような声援の中、限界を超えてサッカーをする夢を捨てることはできなかった。

 幼い頃、父親に連れて行ってもらった親善試合、その興奮は、その高揚は、今でも鼓動を速くさせる。フィールドの上、全力でボールを追いかけ、ドリブルをしているときに味わう感覚だ。雷門中のサッカー部レギュラーとして、大会に出場することは喜ばしいことだった。それは変わらない。けれど、浜野と倉間の顔を思い出すとそれが罪悪のように感じてならなかったのだ。

「おーい、速水!」
 下を向いていた速水は、聞き慣れた声に心臓を跳ねさせながら、反射的に顔を上げていた。コンビニの前、大きく手を振っているのは予想通り浜野と倉間だった。足が竦む。立ち止まってしまう速水を、浜野はなおも大声で呼ぶ。

「おーい!はーやみー!」
 唇を噛み、握りしめた手の平をまた強く握って、速水は歩みを再開した。何か、辛い言葉を投げかけられる、そんな想像を巡らせながら。

「これ」
 突き出されたコンビニの袋を前に、混乱している速水は更に突き出されたそれを仕方なく両手で受け取った。ずしりと重みのあるそれの中身は、大量のお菓子とジュースだった。続いて、食べかけのアイスを両手が塞がっている速水の口の前に差し出した浜野は「食べてみ?」と言いはなつ。流されるように口に含むと、妙な生臭さと甘みが口内に広がっていった。思わず咽ぶ速水に、倉間がスポーツドリンクを差し出す。それで口内を洗い流した速水は、「ほら、やっぱりこれは不味い」「えーっ、なかなか再現度高いと思うよ」というやり取りを聞く。

「なんですか、これ」
「新発売のイワシ苺味」
「……」
「普通買わねーだろ」
 いつもと変わらない雰囲気に息が詰まりながら、速水は手元の袋を改めて見下ろす。それに気付いた浜野が「お祝い!」と言いはなつ。

「レギュラー入りおめでとー!」
 その言葉に愕然としながら、速水は二人を見つめた。「今度は俺も一軍入りするからな!待ってろよ!」と怒ったように言う倉間と、にこにこしている浜野に、信じられないといった様子の速水は、なおも言葉を失っていた。

「よかったな、速水」
 浜野に肩を叩かれた瞬間、堰を切ったように涙がポロポロと流れてアスファルトに落ちていった。出て来る鼻水を啜りながら、俯くと濡れて色の変わったアスファルトが目に入る。滲んだ視界の中、焦った浜野の声と、それを宥める倉間の声がした。目元を拭いながら、凝り固まっていた不安が、笑ってしまうほど簡単に消えていくのを感じていた。だが、次の瞬間いきなり暗くなった視界と高熱にビクンと肩を揺らしてしまう。浜野に抱き付かれていることを自覚した速水は、変な声を上げて離れるよう訴える。

「何してんだお前」
「だって、速水が泣いてたし!」
「理由になってねーよ」
 浜野の匂いが、どういう訳か気分を鎮めていく。高体温の浜野は、低体温の速水を変化させていく。押し返そうとしていた片手を少し留めて、その胸に額をつけた速水は、「ありがとうございます」とくぐもった声を出した。「うん」と答えた浜野の言葉に、また少し、泣きそうになった。


2013/05/06 1:24


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