変化する景色/霧野と神童



「久々に、サッカーしないか?」
 昨日も思い切りしてきたというのに、久々とはどういうことだろうと考えながら、俺は自然に返していた。

「いいけど……できるのか?」
 おそらくは無理だろう。少なくともこの時代では。昨日の今日でわざわざ別の時代へ行くとも考えられない。一体どういうことかと考えていると、ボールを隠し持ったまま、神童の家の裏手まで連れて来られた。広すぎる家には死角が多くある。木々の植えられた木漏れ日のスペースには、庭師くらいしか入り込まない。幼い頃、ドキドキしながら探検して見つけた場所は、踏まれることがなくなって草が少しだけ伸びたくらいで、あまり変わっていなかった。

 子供のころのワクワクが蘇って溜め息が出た。あのとき、神童の家は迷宮のようだった。初めて見た、大きい屋敷の中でする隠れん坊や隠れ家作りの興奮は胸の底に残ったままだった。

「懐かしいなぁ……」
「少し、狭いかな」

 ここで密かにボール遊びをしていた頃は、まだ小さくて、こんなスペースでも広く感じたものだ。ボールの大きさ、木々の高さを思い出して、自分たちの成長を感じた。

 リフティングを始めた神童が、ふわりと浮かせたパスを出す。草で軌道が変わるので、浮かせたボールを中心に操っていく。こんなに上手く、相手の足元へ返すことなどできなかった。器用な神童でさえ苦戦していた事実を思い出してくすりと笑みが浮かんだ。ヒール、インステップ、神童にボールを渡し、彼が保持し始めたものを取りに行く。


 突然自分が分からなくなることはあるだろうか。どこからどこまでが自分なのか、どこに自分は存在しているのか、天地はどこにあるのか。

 何を望んでいるだとか、何をしたいだとか、そういうことじゃない。そばにいることが当たり前で、神童のことを考えて、に行くのも、戦略を相談するのも、共有するのも、観戦するのも、一緒に勉強するのも、こうしてボールを蹴り合うのも、あまりに自然だった。当たり前に埋没するのは容易いのに、崩落すればもう、何もかもが分からなくなる。

 神童と一緒にいるとき、自分はどこに立っていただろうか。神童の顔を見るとき、自分はどんな表情をしていただろうか。神童の言葉に、どんな思考回路を介して返答していただろうか。ピッチで走る神童を、どんな感情で見つめていただろうか。そんなことが一気に分からなくなってしまった。

 神童はその能力の高さから、いつも何かを任されるポジションにいた。生まれもって人を率いる運命なのだろう。神童の繊細さはよきリーダーとして機能していたが、同時に彼自身を切り売りするような事態にばかりなった。

 過程は省くが、俺は神童を何より大切な友人だと感じていた。だからこそ、身をやつして物事に取り組む神童を尊敬していたし、支えてやりたいとも思った。悩み苦しみながらも、逃げることができない負けず嫌いな神童は、言葉や優しさを欲しているわけではなかった。身勝手に言葉や優しさを押し付ければ、自己満足でいくらか楽でいられただろうが、そんなことをできるわけもない。無力を感じでも、俺は神童のそばにいることしかできなかった。

 そうして大概、神童は自らの足で再び歩き出す。俺はそばにいるために、必死に追いかける。立ち止まり、懊悩する神童は、そうやって歩みを止めていた分遅れるわけではなく、悩んだ分だけ前に進んだ。見守ることしかしてこなかった俺は、そうして少しずつ、遅れていったのだろう。いつの間にか、神童の後ろ姿しか見えなくなっていた。

 地面が崩落したような感覚で、いきなり襲ってきた焦燥感。必死に何かにすがりつこうとするのに、自分には掴めるものが何もない。こんな暗澹とした迷路を、神童はいつでも切り抜けてきたのかと思うと、益々動けなくなってしまった。

 闇雲に進むことの恐ろしさ。進んだ先が逆方向だったらと思うと容易に歩けない。それでもにじりにじりと焦りが背中を押してくる。この先、俺は遙か後方から、仲間たちと歩む神童を見つめるのかと思うとぞっとした。一種の独占欲だろう。どうしても譲れない場所が俺にはあった。

 また、プライドもあった。唯一無二、自分にしかできないという誇りで守ってきたポジションの数々が、自分には役不足に思えてくる。こんなに苦しいことはなかった。神童は神童にしかできないことがある。だが俺はどうだろうか。そう思うと身が震えた。悔しかった。淋しかった。


 今、ようやく出口への明かりを前にしても、もとの通りに戻ることができそうにないことを感じている。悩み、立ち止まった場所で見た景色は、前の自分を作り替えてしまったからだ。同じようにはいられないし、関係性も少しずつ変化している。きっと俺は前よりも、神童のそばにいることに固執するだろう。そうして前に進むことを、躊躇いはしないだろう。

 視線と仕草でフェイントをかけ、逆に動いた神童、それを読んで足元のボールの方向を爪先で変える。草に当たって鈍くなったスピードに、すぐ反応した神童が、身を翻してボールに食らいつく。すんでの所で奪えなかった。ピッチの上でなら取れただろう。

「さすがだな」
 少し上がっている息を整えながら、口に出ていた言葉を受けて、神童は口角を上げた。

「霧野のプレーは繊細だ」
「それを言うなら、神童は丁寧だろ」
 足の一部であるかのように、歪みなく操る神童のボールは美しい。足の甲に一瞬乗せたボールを寄越され、インステップでクッションになるように受け止めた。

「今度は、ピッチでやろう」
 足元に落としていた視線を神童へ向ける。言いはなった神童は、決意だとか意志だとか、そういう表情ではなく、ごく自然に約束を交わすような口調だった。つられて笑い顔になりながら、俺は「ああ」と答えていた。

 神童、早くまた、雷門のフィールドでサッカーしような。


2012/10/06 19:36


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