イカロス/円豪



 鬼道は使い慣れてきた教科書一式を鞄に詰め込むと、それを肩にかけて家をあとにした。今年の残暑は特に厳しく、昼過ぎには茹だるような気候が続いている。夏虫は未だ鳴きわめき、夏の灯火を燃え上がらせている。夏休みも残す所数日となった折、円堂から招集、というよりもヘルプがかかった。


「練習がない日も、特訓三昧だったらしい」
「円堂らしいな」
「ああ」
 ようやっと長さを含み始めた豪炎寺との付き合いから、鬼道は彼の含む繊細な感情変化を読み解く術を、いつの間にか身につけていた。けだし、それは円堂に関することのみ鮮明に表れるのだから、何とも憎いではないか。『ああ』の一言にさえ滲み出る、円堂への思いの深さにただただ、感嘆するばかりである。不自然さなどまるでない表情や言葉一つ一つが完璧すぎて、どこか不自然に感じられる。それでも紛うことなく真実で、真理なのである。

 豪炎寺が円堂へ差し出すものの大きさに、愕然とするときが鬼道にはあった。自分を投げ打つこともやぶさかではない彼に、そういった傾向のある者が持つ無気力さなどは感じ得ない。もとより鬼道が彼に諭すことなど何もありはしないのだ。なぜならば、彼は人の数倍思慮深く、自分というものと、円堂守という人物を理解しきっているからである。その上での奉仕作業だというのなら、鬼道には口を閉ざすことしかできない。

 ベンチには木陰がかかっている。待ち合わせの五分前を示す時計は、今現在豪炎寺と鬼道が座している場所から真正面に見える。そしてその向こうは、円堂の家の方角である。そのことに気付いたのは、先に到着していた豪炎寺の向かう、視線を追っていたときだ。さほど強くない日差しはそれでも眩しいほどに地上を照らしている。木陰から見る光の世界は未だ整然としている。夏休み末、皆それぞれ課題に悩まされて缶詰状態なのだろう。

 遠く、反響するような子供の声が遠ざかっていけば、蝉の声だけが辺りに響いていた。蜃気楼がアスファルトから立ち上る。鬼道は円堂と出会って、雷門へ身を寄せてから、自然に触れる機会も多くなったと感じる。世界は刻々と景色を変えて、鬼道の瞳に新たな発見として現れるのである。

「豪炎寺」

 想定していたよりも幾分、平淡な声が口許から放たれていた。ジワリとした暑さの中、妙に喉が渇いて仕方ない。体の中から溶けていきそうな温度の中、相変わらず道の先を眺めている相手は、言葉の続きに耳を傾けている。

「不毛だと、思ったことはあるか」
 卑怯で、残酷で、下らない質問だと分かり切っていた。それでも口にすることが出来たのはやはり、相手が豪炎寺修也という人間、それゆえなのである。案の定、彼は平然と言葉を返した。

「ない」
 ゴーグルの奥、鋭い瞳を細めた鬼道は、注意深くその男の横顔を見つめている。

「この先なんて分からない。いつまで一緒にいられるか、なんていうのは問題じゃないんだ。俺は、」
 いつもより饒舌な豪炎寺の、薄く伶俐な唇が動く様を眺めながら、混乱を来す脳を叱咤する。彼の言葉は平素より、誰のものよりも重く、真に迫っている。一言一言、聞き逃さぬように耳をそばだてれば、夏の終わり、生命の残りを燃やす虫たちの声が少しだけ小さくなる。

「俺は、今、幸せなんだ」

 鬼道は、豪炎寺との付き合いが長い方ではない。それでも、過ごした時間の深さは人の数倍にもなるのだろう。鬼道の知る豪炎寺の笑みというのは、シニカルであったりニヒルであったり、いつでも余裕を土台に生まれたものである。声を立てて笑うことも皆無に等しい豪炎寺の、今浮かべているような笑みを、鬼道はごく稀に目にすることがある。ただ、それは水面に花弁が触れたような、淡く、静かで、刹那的な微笑みである。この、眼前の笑みはそれを色濃く抽出した、幸福の表れなのだろう。疑う余地も、そこには介入し得ない。

 幸と不幸は悪と善の如く表裏一体で、幸があればそれに見合った分の不幸を感じることになる。それでも、と彼は言い放つ。この先の不幸を背負おうとも、自分は幸せで、それを全身全霊で感じているのだと、平然と言い放つ。

 大切なものや幸福というものは得てして、それを失って閑散とした荒野に見付けるものである。空虚を眺めながら、喪失したものの大きさに愕然と立ち尽くすのが常だ。それを思い知ったのは鬼道だけではないだろう。だからこそ、幸福の中で高らかに幸福を謳う豪炎寺の境地が眩しく思えた。豪炎寺は一縷の隙なく大切なものを慈しみ、己の幸福を愛おしんでいるのである。思慮深い彼だからこそ、その言葉は何倍もの重みとなって真に迫っている。

 鬼道は変わらず、彼に言及するような言葉自体持ち合わせていない。つられるように、上がった口角のまま視線を移し、そうか、と応えると、視界に映った人物に聞かれぬ前に、再度唇を開く。

「どの位?」
「……この先ずっと、生きていけるくらい」

 鬼道にとって、彼らの恋愛は理解できる域にはない。ゆえにこれからを想定することも、現在の彼らの思いも、考えも、てんで想像ができないのだ。それでも、友人の見せる仄かな表情の変化や、まとう空気だけは感じることが出来る。すらりと伸びた背筋、長く男らしさを含む喉元、色素の薄い髪に長い睫毛。友人の域を出ないその人を、それでも美しいと感じることがある。男という美しさは、彼の悟る境地がみせるものなのだろう。

 こちらに気付いた人影が手を振りながら、一気に加速を付ける。小脇に抱えているのはサッカーボール。使い古された、何よりも尊い、自分たちの絆。相変わらず眩しい男だ。それはもう、太陽の如く。届く声に応えた豪炎寺の顔を一瞥し、鬼道は熱い空気を肺に送り込んだ。

2011/9/22(Thu)


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