初恋をしよう/兵きり



 彼は口と口をぶつけるように合わせた。突然のことに相手は口を閉じてしまう。そのことに少しムッとしたらしい彼は相手のご自慢の、綺麗に結ってある髪を後ろに引っ張っる。その拍子、僅かに開いた隙間から舌頭を侵入させた。逃げる舌を追い掛けて絡め取る。蹂躙の間に漏れる息が甘かった。

 教室全体が固まっていた。その中央でことの次第を見てしまった、こんな時でも冷静な男、庄左ヱ門は頭を抱えながら溜め息を漏らした。


 時は僅かに遡る。

 午前中最後である土井の授業を受けに、先の実習授業からちらほらと同じ組の仲間が教室に戻ってきていた。前回の授業の復習を兼ねて、使い込まれた教科書を開いていた学級委員の元に、機嫌を悪くしている青年がやって来た。存外飄々としてストレスをためない彼には珍しい様子であった。無言のままどさりと目の前に隣に座り込んで側の文机に頬杖をつく。

「兵太夫、どうしたんだ?」
 まさか無視するわけにもいかず、嫌な予感を圧して庄左ヱ門は問う。

「気持ち良くないんだ」
「は?」
 余りに端的な台詞に疑問符を浮かべる。

「ううん、気持ち良いけど気持ち良くないんだ」
 教科書を開いたままでポカンとしている相手へぐいっと上半身を乗り出した兵太夫。反射的に身を引く庄左ヱ門。

「僕の話聞いてる?」
「聞いてるけど……何のこと?」
 理解していないのが信じられないというように眉をひそめて兵太夫は大仰に答える。

「決まってるでしょ?情交だよ情交!」
 教室のど真ん中で彼が発する言葉に、流石の庄左ヱ門も焦った。しかしそんな様子もお構いなしに兵太夫は続ける。

「僕って相性にかなり左右されるらしくてさー……誰とやっても熱中できないんだよね!まあ、忍として女をたらしこむんだから、そういった意味では熱中できないのは利点だけどさあ、息抜きもできないよ」
「……」
 庄左ヱ門は黙って話を聞くしかなかった。どうしろというんだ、と。作法委員会の役員である彼は、学年があがるごとに忍としての作法を他の者たちよりも深く理解するようになってきた。元来、色を用いて相手を陥落させるのはくのいちの得意分野であるが、男が女をたらしこんで情報を得るという方法も常套手段だ。庄左ヱ門自身、知識としてそういった事柄も頭に入っているが早熟で好奇心旺盛、そもそもが詐欺師性質なところのある兵太夫はその上級生用の忍術をすでに体得しているらしい。

「で、考えたわけ。女性がダメなら男はどうだ!」
 余りの極論に閉口する庄左ヱ門。思考がぶっ飛び過ぎである。彼らしいといえばそうなのだが。

「でもまぁ僕と対にならなきゃいけないから下手な奴はダメでしょ?ある程度の品性とか見目の良さがなくちゃ」
 腕を組み、弁舌を振るう兵太夫。置いてけぼりの庄左ヱ門。

「という訳で、庄左ヱ門、今夜どう「丁重にお断りするよ」
 今までの態度と打って変わって、爽やかな笑顔で庄左ヱ門は答えた。

「僕からの誘い断る気!?信じられない!あーぁ庄左ヱ門ならギリギリ範囲内だったんだけどなー」
 彼は脱力して乗り出していた身を戻した。端正な顔立ちをしていても、数年間学友をしていればそのたちのわるさは十二分に理解できる。

「何もは組の誰かじゃなくてもいいだろう」
 庄左ヱ門は学級委員長として、自組の風紀が乱れるのは避けたいのである。まして色恋沙汰でギクシャクするなど問題外だ。

「身近な所から攻めて行こうかと……う〜ん、あと可能性があるのは……団蔵とか金吾とかは、僕が勃ちそうにないし……ああ、そうそう。僕は女役はやらない派なんだよねえ」
 窓際で話している二人を見ながら零す兵太夫。苦笑いを浮かべながら庄左ヱ門はその様子を見守った。

「無理無理絶対嫌!」
 途轍もない拒否反応だった。忌々しげに唾棄して入り口へと視線を逸らす。

「どーしよーかなー…、…!」
 その時現れた影へ、おもむろに向かう兵太夫。訳が分からずに庄左ヱ門はそれを見守る、見守ってしまったのだ。

「あれ?兵太夫?」
「どうしたの?」
 前二人を素通りして、最後尾に位置した青年の眼前に立つ兵太夫。

「おぉい、兵ちゃーん?」
 小首を傾げて少し背の高い相手を覗き込む。その後頭部を引き寄せ、兵太夫はきり丸に口付けを落とした。



 __これがここまでのあらすじである。数分間もの彼らの口付けの間、いつもかしましいは組の面々が一言も発しないのは異様といえばそうであった。

 っは、と大きく息を吸い込みつつ、兵太夫はやっときり丸から離れた。その瞳は驚きと輝きでキラキラしていた。しかしそれ以上に驚愕していたきり丸は、いきなりの奇襲に軽い酸欠状態に陥って、ふらりと倒れそうなその身を相手の腕を掴んで支える。その様子に驚きと喜びを深くした兵太夫が、たまらないといった様子できり丸を抱き締めた。は組の面々はなおも硬直し続けている。

「きり丸!」
 顔を覗き込んでその瞳を向ける兵太夫。対してきり丸はかなり引き気味だった。

「な、何すんだよ!突然!」
「凄いよ!接吻だけでこんなに気持ち良いなんて!きり丸か!僕としたことが、なんで気がつかなかったんだろう?一番に思いつかなきゃいけなかったのに!」
「お、おい…」
 一人暴走を始める兵太夫。きり丸は、ひとまず離れようと両手で押し返すが、酸欠の影響でうまく力が入らないようだ。

「ねぇ?きり丸…」
 困惑的な声色で兵太夫はきり丸の頬に手を当てる。更に耳元に口唇を近付けた。

「今夜、僕としない?」
「何を……」
「同衾」
 瞬間的に兵太夫を押し返し、きり丸はバックステップで彼から離れる。これは俗に言う火事場の馬鹿力である。

 授業開始の鐘が鳴るのも構わずに、彼は踵を返して一目散に逃げて行った。その場に残った兵太夫は恍惚とした笑みを浮かべている。そして、次の瞬間ばっと振り返り、は組を見渡した。やはり皆硬直したままだ。

「見た?!あの真っ赤な顔!あれはそうだよね、照れたんだよね、拒絶じゃないってことは容認、だよね!」
 賛同しかね、目を逸らそうとしたり真っ赤になったり真っ青になったり固まったり、様々な反応をしている面々をそのままに、兵太夫は再び庄左ヱ門の側に駆け寄った。

「きり丸は特忍なの、知ってた?」
 耳打ちをするように潜めたその言葉を聞いて、庄左ヱ門はまずいぞ、と眉をひそめた。特忍、特殊忍務の遂行の資格を持つ生徒。その面子は作法委員と先生方、ごく一部の面々にしか知らされていない。作法委員の審査を受け、特殊忍務遂行能力を認められれば資格が得られ、その特殊な忍務につくことができるというもの。その特殊な任務の内容とは。

「兵太夫、きり丸は生活のために……」
「割り切っているって言いたいんでしょ?でも、割り切っているのにあの反応は、僕を意識しているってことにならない?」
「友だちにああいうことをされたら普通ではいられないと思うよ」
「付け入る隙があるならそれでいいよ」
 男色、それは黙認された習慣。とくに男ばかりで構成される武家関係などでは、異性間の恋愛よりも、男同士の絆のほうに神聖さを見出す風潮もある。そこにつけこみ、小姓や小間つかいとして男色の気がある主人に仕えてたらしこむ、という術がきり丸のような中性的で少年美を残す者には使いこなせるのだ。特に彼は多くの人間を知り、多くの人生経験を積んでいるため、人のこころを操るコツを心得たらすぐにものにしてしまった。きり丸が特別手当がつく特殊忍務の資格を自ら取得していてもおかしくはない、むしろ自然だ。でもだからこそ、きり丸は友人にそれを知られることを厭うし、友人との関係を明るいものにしておきたいのだろう。

 あの反応は庄左ヱ門としても少し意外ではあった。「銭を払え」などと皮肉った言い方でピシャリとやり返すくらいしそうなのに。であるからこそ、あのように純粋な反応を見せた彼の気持ちを破壊するような行動は容認しかねる。なんとか、この目を輝かせている友人を説得しようと言葉を選ぼうとするが、新しいからくりのアイデアを思いついたかのように夢中になっている彼にはもう何も届かない。

「大丈夫だよ、僕は、きり丸とは恋愛がしたいから。‘一文の特にもならない’恋愛をね」
 要するに兵太夫は、損得勘定抜きにきり丸が自分を選ぶよう罠を仕掛けていく心積もりなのである。痛む頭をおさえながら、庄左ヱ門は口達者な彼の暴走を止める術を失っていた。まさかあの胃痛持ちの、過保護な保護者に告げ口できるわけもなく。危機感知能力が高く、逃げ足の速いきり丸が上手く逃げおおせてくれることを願うが、相手の行動を読んで罠を仕掛けることを得意とするこの相手にはなかなか難しいだろう。

「ほら席に着けー……ん?どうした?」
 この問題において、けして他人事ではない例の担任が入室してきたことで、庄左ヱ門はひとまず冷静に思考を切り替えて遠い目を窓の外へ向けた。

(きっとまた、授業が遅れるな…)



2016/01/13(改)


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