デコード/団きり



 彩度を失った世界に彩度を失った少年は在った。広すぎる空も、果てしない地平線も、散在する石岩も、枯れかけた草木も、渇いた大地も、彼のちっぽけな両手も、全て灰色だ。その荒野をただ独り、当てもなく、目的もなく、所在もなく、歩き続けている。歩くということが、彼に残された最後の手段で行方で在処で方法なのだと本能で分かっているかのように。辿り着けない地平線を目指してひたすらに。がむしゃらに。後ろは振り返らない。まして、後ろは振り返れないのだ。そうしてまた一つ、耳障りな叫喚が背に伝わった。振り返るな。そう自分に言い聞かせる。振り返るな。振り返った先にある、艶やかな彩度に囚われたら、きっともう、戻って来られなくなってしまうから。

 歩き続ける。ひたすらに。がむしゃらに。進んでいるのに。歩んでいるのに。地平線はますます遠くなるばかりだ。



 暗闇に染められた梅の花の香りが鼻先を擽った。

 かつてこの花を売ることを企んだが、教師陣と学園長にその企てが露呈して大目玉を食らった。今年も見事に咲いたその花はいまだに銭に見えてしまうので、極力視界に入れないように横を通り過ぎた。自分だって花を愛でる位の感受性は持ち合わせている、と言い訳じみたことを考える。ただそれをする余裕がないだけで。

 時刻はそろそろ丑三つ時。昼間に学び、と言うよりは遊び疲れた生徒たちが、そしてその面倒を見て疲労困憊した教師陣が寝静まった学園内は、自然の音だけに包み込まれている。その静寂の中、足元でしゃりしゃりと寒さに硬度を増した土が鳴っていた。

 __と、後方に気配を感じて立ち止まる。振り返ることもなく、きり丸は凍った半月を見上げた。冷たい空気は澄んでいて、月光は突き抜けるように地上に届いている。

「今夜も冷えるな」
「あ、バレてた」
「団蔵は気配を消すのが下手くそだからな」
 くつくつと、眠ったものを憚るように笑い声を洩らす。

「不得手と言うほどじゃないよ、きり丸が敏感なだけ」
 団蔵が呟く。呟きで十二分に聞こえる距離まで近付きながら。

「俺に知られるようじゃあ忍者としてやってけないぜ?忍の本分は隠れることだろ?」
「学園生活中盤なんだからまだ大丈夫」
「終盤になったら見てろよ」
 団蔵が横に並んだことでようやく視線が絡み合う。少し顔を上げなければ目線があわなくなってしまったことに不服なきり丸はもちろん面白くない。早くも成長期を迎えた団蔵は顔つきも体つきも男らしくなってきた。そのためか馬術で鍛えられた、均整のとれた筋肉は無理なくその体につくようになった。性格とあいまってすっかり男くさくなった同級生を見ていると、自分を錯覚しそうになる。きり丸の成長期はまだまだ先だ。団蔵のいう、学園生活終盤になったとき、自分は立派な男になっているだろうか。しなやかで細い手首を視界から外し、きり丸は改めて相手に向き直った。

「それで、どうしたんだ?こんな夜更けに」
「厠」
「洩らすなよ」
「……行ってきた。きり丸、俺を何だと思ってるんだ」
「団蔵は団蔵だ」
 間髪入れずに受け答え。面白くなさそうな学友を尻目に笑みを落とす。外見は成長著しくとも、なかみの子どもっぽさは変わらない。

「寒そう」
 不意に団蔵がきり丸の手を取り眉を顰めた。団蔵の行動は短絡的だ。衝動で動くため相手の思考をある程度読むことが習慣付いているきり丸には幾分やりにくい部分がある。

「冷た……」
「温かい」
 じわりと体温が伝わった。相変わらず高体温だ。筋肉量の違いがここにも明らかになっている。忍装束に身を包んでいる自分よりも、寝間着の団蔵の方が遙かに体温が高い。夏場は暑苦しくて仕方がないけれども、涼しい季節ならば手を握り返すくらいは積極的になれる。

「じゃあ抱き締めていい?」
「有無を言わせず抱き締められるようになれないとな」
 苦笑いを浮かべる団蔵。気遣いなど似合わないというのに、彼は殊きり丸のこととなると妙な慎重さをもってしまう。まるで、自分の力で抱き潰してしまわないように、それを恐れているかのように。

「明日バイトは?」
 結局相手は諦めて話題をかえた。しょうがないやつだ、と呆れながらも手は繋いだまま「ある、けどまぁ大丈夫」と答えてやる。

「大丈夫?」
「大丈夫だって」
「違う」
「……大丈夫」
 それは余りにも平然過ぎた。綻びは覆い隠して、穴は塞いで、傷は蓋をして。そのようなことをしなくとも、同じ道を歩む彼には多くを知られてしまっているにもかかわらず。

「きり丸」
「何だ?」
「抱き締めていい?」
「はは、馬鹿だよな、本当。それとも意地が悪いのか」
 言った瞬間に抱き竦められた。じわじわじわじわ、奪うばかりだ、そんなことを目を閉じながらきり丸は思う。

「やっぱり冷たすぎる。どれだけいたんだよ」
「生憎体内時計は不正確な方なんで」
「怖いことあった?」
「何だそれ」
「震えてる」
「寒いからなあ」
「そう。じゃあ……もう少し。このままでいても良い?」
「……聞くなってば」

 梅の香りが此処まで漂ってきて、月下のふたりを嘲笑うかのように包み込んでいた。結局のところ、その香りは、きり丸の身に染みついた血の臭いまでは消してくれないのだ。



2016/01/13(改)


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