戒ヲ破リテ/金きり




 まとわりつく湿気が自分を狂わせたのだと縋るように全てを投げ出してしまいたくなった。足下から這い上がる言い知れぬ不快感が細胞一つ一つまでに及んで、その青年を造り替えていった。かつて、全てが優しくたおやかに見え、世界を甘受していた彼はもういないのだ。

 降りそうで降らない意地の悪い曇天があらゆる事柄を包み隠して、嘲笑うかのように広がるのを青年は感慨深げに仰ぎ見た。閉じることのできない役立たずの瞳を向けられる場所といったらもうそこしか残っていなかったのだ。赤々とした地上にうんざりしていた所に飛び込んだ灰色は、それでもなお僅かの赤を含み彼を更に陰鬱とさせる。自身のあらゆる部分が不能になってしまった青年は為す術無く、諦観の下に強く手を握り込んだ。

 その手の中にはぬるりと気色の悪い水気を帯びた刀が一本。切っ先から根元、柄に至るまで赤く染め上がった日本刀がずしりと重かった。上級生となって父から与えられたこの名刀が嬉しくてたまらず、手入れを欠かさずにその輝きを毎日眺めても飽きなかった。持ち慣れているはずのそれは今、多くの命を吸って妖刀へと変化しつつある。人を殺める刀と成り果てた愛刀は、その代償に刃こぼれを起こしている。

 誰か、助けてくれ。

 そう愚考する甘ったれな自分を容認してしまうのも仕様のないことだろう。ここは地獄だ。足先に広がる赤い沼には何十もの肉叢が散らばり死臭を其処彼処に撒布していたし、周囲の木々も死に絶えたかのように葉のない身を晒していた。まるで生きていることが罪であるかのように整然と絶対的な存在を以てそれらは青年を嘖んでいた。

「随分派手にやったなァ」
 この場に全く似つかわしくない音を聞いて目を見開く青年。助け出して欲しいと、このような世界からそう、あの遥か昔に見える無知で優しさに包まれていた場所へとさらってもらいたいと願ったのにも関わらず、彼は酷く動揺した。否、それはここに巡り至ったのがこの男だったからかもしれない。今更ながら酷い嗚咽に息が詰まる。もう吐き出すものなど何もありはしないのに。

 その男は青年が日ごろ見ている姿と何一つ変わらない様子で辺りを見渡していた。それは青年が常見ているものとは大きく逸脱している。

 やはり、と崩れ落ちそうな内側の某かを想見していた事実で何とか保つ。得たりやおうとはできずにいる自分を稚拙だと詰ることは容易かったが、それでも情け容赦なく情景は五官を通じて彼の内へと刻まれた。

「俺を難じないのか」
 そう問えば何としてその青年が言葉を言い放ったのかと男は、いとも容易く、微笑んで見せた。

「なぜ」
「解っているんだろう、大半は俺だ。殺めろと言われたのは一人だった。でも気付いたときには複数人に囲まれていた。生半可に戦えば此方が危うかったんだ。分かっている、そういう状況にしてしまった時点で、忍としては失格だと。でも、それでも、」
 それをしないと知って青年は面責を縋るように相手に懺悔じみた独白を始める。しばし青年の言葉に耳を傾けていた彼はそれでもなお笑みを崩さなかった。その事に己の裡の肝要たる部分が欠落していくことを知りながら、青年は安堵に今にも泣き出しそうになっていた。

 手に生々しく残る感覚。初めの一人から最後の一人まであの、他の動物では味わえない独特の切れ味とそれに伴う罪悪感、それとともに自分の中に生まれる昂揚。初めの一振りは素晴らしく、払った時に肉をスウッと断ち切った。あの見事な切れ味は、露払いでも拭えないほどの血で染色され始めてからは鈍くなった。最後の方には、ほとんど斬れない刀を肉に突き立て、その命を奪っていた。忍は武士とは違う。暗殺も行うが基本的には諜報活動が中心の仕事だ。このような地獄を作り出してしまった自分を、忍という立場では説明ができない。己の中に物の怪の気配がする。それが囁く。それが誘う。それが肯定する。それが、言葉に詰まるほど怖ろしい。

「……きり丸……」
 何も言おうとはしない相手にとうとう業を煮やした青年がその名を呼ぶ。そのまま彼が近付くが、青年はやはり動くことができずにその場に立ちつくした。彼は死屍累々の血池の上を、何の戸惑いもなく歩く。ビチャビチャと汚らしい音が鳴るのに、近付いてくる彼はただひたすらに優雅で、美しかった。染色の済んでいない箇所は大声を上げて逃げようと藻掻くのに、黒ずんでしまった手遅れの部分は緩やかなその歩行速度に痺れを切らしている。

 眼前へと迫った相手を見下ろして青年は漏らせない嘆息を閉じこめた。彼の死人のような手が青年の頬を捕らえる。触れるだけの口付けは青年を染め上げるのには充分すぎた。二人の口内に入り込むのは一面を包む死臭であるにもかかわらず、その唇を甘く感じてしまった時点でもう終わりなのだと自嘲のように全てを受け入れた。露の間の接吻は遂に終わりを告げ微笑み続ける男は青年の瞳に再び収まる。

「ようこそ」

 ただひたすら、静かに放たれた言葉はどこまでも浮き世めいていて、五官全てから侵される感覚がする。それはもう見事に美しく笑むものだから青年は、その死に神のような相手に跪いて口吻を手の甲に落としたい気持ちになったほどである。

 結局のところ、正当化も非難も黙認も無視も嘆息も嘲笑もせずにただただ嬉しそうに艶笑する相手を見詰めながら、皆本金吾は緩やかに笑みを浮かべた。

 __お前が望むなら。

 全ては必然で肯定された定めなのだと。



 金吾のなかから消え去った涙の代わりに、やがて空から滑り落ちた雫が、下界を隈無く濡らし始めた。




2016/01/13(改)


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