橋の袂にて



 きり丸は苗字たる部分を覚えていない。自然と忘却していったにせよ故意に忘れたにせよ、彼には断片的にしかかつての記憶がない。彼は彼であって彼でしかなかったので、他人がどの程度その自身の記憶を持ち合わせているのか量る術を知らなかった。故に今の知り得たる記憶的な情報で満足しているのである。元来何かに頓着する気質ではなかったのだろう。彼は容易に現状を受け止め、生き抜くことの苦難に甘んじた。

 きり丸は忍術学園からほど近いある町にいつものように内職に出ていた。何の秩序もなく生えた六本の松を過ぎれば、屋根の所々欠落した貧しい家々が見え始め、次第にカン、カン、と規則正しく鉄を叩く音のする研ぎ屋や、煤けた台に竹細工を乗せて客寄せに声を上げている商店やらが軒を争い始める。それは町の中心部から向こう側、朱柱の立つ北西の出口を盛りにしてひしめきあい、共にその町の活気に一役買っていた。

 しかしきり丸はそういった仰々しくも華やかな中心部の賑やかさに、心のどこかでは嫌悪にも似た鬱屈を感ぜずにはいられなかった。それが何故に起こるのかを彼は知るよしもない。手がかりはとうの昔に埋もれてしまったのだ。こういった体であらゆる事を容易に諦めてしまう癖が、きり丸にはあった。それは彼の生き抜くための処世術である。

 その、生きるために諦めていることの一つが、鬱屈たる気持ちを圧して町の活気へ飛び込むことだった。効率よく稼ぐためには必要なことだった。彼には殊更金が要るのだ。

 活気づいてきたかのように思われる町は一旦、中千通りを縦断するかのように走った疎水に遮られる。それはかつて町の住民等が近くを流れる大川から引いてきた、簡単なものであった。しかしながら確かにその水流は住民や商人達の大きな拠り所となっていた。その近くには染め物屋やら旅宿やらがあり、天気の良い日に通ると色鮮やかな着物が旗のように閃いているのを見ることが出来る。またいつもは町から外れた方に大きな篭を抱えて洗濯に向かう女達に会い、はたまたここいら辺で洗濯物の内職を頼まれたりすることもよくあった。

 しかし今日に限っては辺りの人通りが妙に少ない。この厚顔たらしく広がる陰雲のせいだろうかと、風に乗る湿気に苛立ちを覚える。今日は店内での内職なので万一雨が降っても稼ぎ自体には問題ないと言えばそうなのだが、生憎彼は傘を忘れてきてしまった。一雨来ない内に目的の店へ至ってしまおうと足を速めて、疎水に架かる木製の橋に差しかかった。そこでふと、疎水の流れの中に不似合いな色を見つけて、気を止めてしまう。ささくれ立った箇所に気を付けながら、丁度胸の高さにある橋の手摺りから身を乗り出す。

 そこには破れや解れのある濃紺の着物を身につけた幼い死骸が疎水の端に立てられた木片に引っかかっていた。まだ十にも満たない少年のものだ。その見窄らしさから孤児であることが伺える。水死体でないことは明らかだった。体に青々と浮かぶ殴打の後や赤く滲んだ切り傷が、彼の死因を物語っていた。恐らく暴漢に襲われたか、盗みの果てに殴られ意識朦朧の内にこの疎水に落ちたか。しばらくして水を肺一杯にしたら沈んでしまう。そして再び浮き上がって外気に晒される頃には、見るも無惨な状態になっていることだろう。

 あらゆる事に淡泊であるきり丸は、その死骸の行く末を分かっていながら見て見ぬふりをした。それによって罪悪感が生まれる訳でもなかった。死んだことに関してその少年は運がなかったといえよう。その上更に、発見したのがきり丸であったことは、その少年にとって更なる不幸だったのだ。これ以上の不幸が重ならない限り、人の良い人間に引き上げてもらえるかも知れない。ここから先は彼には何の関係もなかった。少なくとも淡泊な彼には。

 雨に降られる前に何とか目的地であった漆屋に着くことができた。そこは先日開店したばかりで、まだまだ人手が足りないことと仕事が多いことで猫の手も借りたいほど忙しい中にあるのだ。店を開くに当たってこの町の親類にきり丸の噂を聞いたらしく、是非にと仕事を頼まれたのだった。仕事という仕事、あらゆる事をこなしてきた経験を持ってすれば品出しや店の準備、接客他もお手の物で、店の主人は彼の働きにえらく驚いた。

 結局雨が本降りになって客足も途絶えた頃にきり丸は一日分とおまけの賃金を貰い、学園への帰路に着こうとしていた。主人や他の家人に挨拶をし、雨よけの軒下に立った時に自分が傘を持っていなかったことに気が付いた。しまったと眉をひそめ、傘を借りられるか主人に交渉しようと反転した時、此方に近付くビチャビチャと泥の跳ねる足音と、パラパラと水を弾く傘独特の音を聞いて振り返る。

「団蔵……」
 見知った顔ではあったが何故彼がここに来たのかを推測できずにきり丸は困惑した。

「迎えに来た。ほら。傘忘れたんだろ?」
 手渡されたのは成る程部屋の前に置き忘れてきたそれだった。

「きり丸たちの部屋の前を通ったら立て掛けたままだったから、もしかしてと思って」
「いや、助かった」
 使い込んだその傘を受け取ってバサリと開く。雨を弾く音が二倍になって、拭えない不可思議さの中で彼は一瞬其処がどこだか分からなくなった。

「……でもどうして、団蔵が?」
「なんだよ。俺が来ちゃあ悪いか」
「珍しいんだ」
 相手の顔を見ずに歩き出すきり丸は、団蔵に話しかけておきながらまるでその人がそこにいないかのように振る舞った。

「別に、何となくだけど。今日はきり丸がここに来ることを知っていたし、雨は降りそうだったし、傘は置きっぱなしだし、町に用事もあったし。」
 慌てて後を追う団蔵の声が普段より聞こえづらい。

「ふうん」
 追いつかれないように歩くきり丸を躍起になった団蔵が追い越す。くるりと振り返り二人は正面から向き合うが、しきりに降る雨粒がきり丸に尽力するかのようにその間を遮っていた。

「何か、迷惑だった?」
 僅かに小首を傾げたまま聞く相手を益々理解できずにきり丸は首を振る。

「だから、助かったと」
「それなら、いい」
 以降団蔵は断固としてきり丸の背後には落ち着かずに、その隣に立ち続けた。何気ない会話を重ねながら不可思議さを払拭できないきり丸は内心苛立ちを覚えていた。相手に対してでもあったし、それは確かに自分に向いているものでもあった。

 きり丸は人間関係というものに対しても淡泊であったし、どこか欠落している部分もあった。それは彼自身認める明らかな欠点であり、嫌悪する部分の一つでもあった。熱心に好意を傾けてくれるものは、好意を上手く引き出して利用してきた彼にとっては過去の罪の叱責であったため始終どこかで苦しんでいた。同時に何の見返りも求めずにただ好意を向け続ける相手への不信感や恐怖心にも駆られていた。理解できぬものは恐ろしい。どこかで何かを奪われるのではないかという不安は常に彼を襲った。団蔵という人物はその最たるものの一だった。無償の優しさや起源の不明な笑顔や悦びを彼に向け続けるのだ。彼にとっては正直、息が詰まる思いだった。

 相変わらず何の話題性もない内容を投げ合いつつ、近道の長屋の入り組んだ裏道を通り抜けて中千通りに出ればすぐ、疎水を跨ぐ橋に差しかかった。何気なかった。足を停めてしまいきり丸はしまった、と思う。案の定団蔵は、どうした、と聞いてきた。それに何でもない、と重い口を無理矢理開いて言葉を出せば、何か思い出したかのように相手が宙をみながら、そう言えば、と切り出す。

「僕、雨の降り始める結構前に来たんだけど、ここの差し木に人が引っかかっていたんだ」
 団蔵の指し示す方向を見もせずに、きり丸はただ虚空を見るように団蔵を見詰めている。

「もう助からないみたいだった」
「それで?」
「え?ああ、大丈夫、近くの人と一緒に引きあげたから」
「ふうん」
 きり丸は何が大丈夫なのだろうと漠然と考えながらその短い橋を渡りきった。なおも横を離れない団蔵は珍しいことにそれ以降しばらく黙った。まるできり丸の様子を窺うようなその間は、きり丸にとって息の詰まる不快な時間に他ならなかった。

「ちゃんと埋葬してもらえるってさ」
 それ以上関心の持てないきり丸は煩わしそうに顔を曇らせた後、歩む速度を上げたが団蔵は事も無げに併走してみせた。

「……やっぱりきり丸は不思議だ」
 覗き込んでくる団蔵を見返すと、その顔には苦笑のようなものが浮かんでいて、この時きり丸は一等大きく動揺した。それ以上この会話が続くことはなく、浮かばなかった動揺はやがて収縮して小石のように胸の内に転がった。

 相手の云わんとしていることはおおよそ分かる。だがしかし逆に言わせれば団蔵の方がよっぽど理解しがたい存在であった。世界を分断するかのように雨はより激しく降りしきり、それに甘んじたきり丸は傘を顔に翳して濡れそぼった土色を見ながら歩いた。晴れる気配のない雨天を仰ぐことなく、水色に浸食されゆく土色を、ただ彼は見ていたのだった。



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