La Sirene

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 足音が夜に響く。建物の壁に、水面に反射して、音は一層大きくなる。
 それは、1人だったならば恐怖を覚えるほど。誰かが後をつけているのではないかと錯覚し、月と星の明かりしかない闇が、さらに恐怖を煽る。
 ――この場に慣れていない者ならば。
 少年は未だ幼い身でありながら、その例外だった。
「すっかり遅くなっちまった」
 半分より少し膨らんだ月の明かりを頼りに、ジャンは埠頭の倉庫街を走っていた。左手には、たくさんの古びた倉庫。右手には、水面に闇を湛えた暗い海。
 ジャンはまだ11になったばかりであったが、船の荷入れを手伝う仕事そしていた。金周りの悪いこの時代、子どもであっても働かなければ健全な生活を送ることなどできない。仕事は朝早くから黄昏時まで。しかし、最近はある事情により忙しかった。そして今日は、夜が深まりつつあるこんな時間まで仕事をしていたのである。
「かーちゃん、怒ってるかなぁ……」
 ジャンの母は心配性だったから、帰りが遅くなるとすぐに腹を立てる。心配してくれるのはありがたいが、怒られるのはやはり嬉しくない。
 何にせよ早く帰らなければ、とせっせと足を動かす。
 と。
 風を切る音以外に耳に触れるものがあった。思わず立ち止まって、ジャンは耳を澄ます。
(歌……?)
 それはまぎれもなく旋律。まぎれもなく言の葉だった。高く、低く、水面に響く女の声。大気を震わす透明な歌は、聴いたことのないものだったが、正しい音律で奏でられているようであった。
(何処から?)
 せわしくあたりを見回してみる。しかし、夜闇になれた眼は人影を映さない。幻聴? いや、確かに聴こえる。まさか、とジャンが思い浮かべたのは、海辺の町特有の伝承だった。
 ――いた。
 歌い手は、視線を少し上げねば見えない所にいた。倉庫の上だ。どうやってのぼったのか、そこに腰をおろし、髪を風になびかせている。頤をあげて、月を背景にしたその影の色は銀と黒。不規則に揺れる銀髪でその顔ははっきりと見えないが、その姿は綺麗で、幻想的で、魔的だった。
 我を忘れて見惚れていると、唐突に歌声が止んだ。我に返ると、歌い手がこちらを見ている。――いや、睨んでいる。
「ひっ――」
 喉が鳴った。別に何をされたわけでない。その女は、倉庫の上で先ほどから体制を変えることなく、こちらを見ているだけだ。ただ、その銀色の眼差しはナイフのように鋭かった。視線を受けるだけで、身の危険を感じてしまうほどに。
 ジャンは恐怖に駆られて走り出した。全力でそこから離れようとする。それでも、まだあの銀の眼差しが追いかけてくるような気がして……。
 また、旋律が聴こえた。
 恐怖に駆られながらも、その歌は綺麗だと思う。まるで、伝説の人妖が歌っているような……。
 そこで、最近起きている船乗りが船の上で殺されているという事件を思い出す。
 あれは、まさかあのシレーヌがやっていることではないだろうか。



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