entracte:rain

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 雨が石畳を叩く音が聞こえる。
 空は灰色。その下にある町も灰色。その間をたくさんの雫が落ちていく。

 この町は一年を通して雨が多いらしい。今日もまた、傘を差さなければ歩けないほどの大量の水が降っているというのに、別段珍しいことではないという。ジェラールが来た時のような霧雨ともなればなおさらだそうだ。
 ただ、珍しくもないからといって、気にしないわけでもないらしい。外の人通りは驚くほど少ない。中心街ともなれば違うのだろうが、この店の前の通りなど人影が見えなくて、町から人間が消えてしまったのではないかと錯覚するほどである。慣れてはいても、やはりやたらと服や靴は濡らしたくないのだろう。
 ジェラールも濡らしたくはなかった。しかし、雇われている身としては、無断に休むことは憚られるわけで、泣く泣くアパートメントから勤め先へと雨の中を突っ切ってきたというわけだ。
「まったく……うんざりするね」
 店と居住区画を繋ぐ階段を下りてきたジェラールは独り言ちる。当然のごとく服は濡れてしまったが、店主は親切にも替えの服を用意してくれた。お蔭で風邪をひかずにすんだ。
「こんなんじゃ、客は来ないんじゃないか?」
 ちょっと外に出るのも躊躇うほどの雨だ。誰も寄り道などしたがらないし、ましてわざわざ店に茶を飲みには来ないだろう。
「来ないだろうね」
 当然だとばかりに店主は言う。はっきりとした回答はジェラールを呆れさせた。
「だったら、休みにしたっていいんじゃないか?」
「お客さんがいないならいないで、することはあるんだよ」
 ほら、さっさとこっちに来て、とカウンターの中に入るように促される。
 本日のすること――ジェラールの新人研修は、紅茶の入れ方を学ぶことだった。
「手際が悪い。だから時間が掛かって、渋くなってる」
 慣れてないから仕方ないとはいえ、駄目だしされればやはり凹む。そんなジェラールを、子供の成長を見守る親のような顔で見やって、ロビンは練習あるのみ、と激励した。
 飲食物であるがゆえに、無駄に練習をすることはできない。今入れた渋いお茶を飲みながら、今学んだことを頭の中だけで浚う。
 そうしてロビンと会話することで時間を潰していると、2階の居住スペースから、欠伸をしながら少女が下りてきた。黒と白の男物の給仕服に纏めた銀の髪が映える、この世のものとも思えぬ綺麗な少女である。美形は何をしても絵になると言うが、彼女の場合は欠伸をして寝ぼけた様子でも当てはまるらしい。
 時刻はすでに、昼と呼んでいい時間に差し掛かっている。
「寝坊だな、シレーヌ」
 声を掛ければ、イリス――伝説の人妖に準えて、ジェラールはシレーヌと呼んでいる――がぼんやりとこちらを向いた。その眼にいつも掛けている色付きレンズの眼鏡はない。世にも珍しい銀色の虹彩が露わになっていた。
 これもすべて客がいないからだろう。他人に警戒心を持つ彼女は、普段このような隙を見せたり、まして瞳を見せるなんてことはしない。親しいロビンはともかく、新参者のジェラールが居ながらそのようにしているということは、少しは信用されているのだろうか。
「眠気覚ましに渋い紅茶はどう?」
 それは嫌味か。
「貰う」
 答えるや否や、イリスは客席に座り、ロビンがカップを出すのを待った。一緒に焼いたパンも出てくる。これがあまりに遅い彼女の朝食となる。
 従業員がこのように客席に座ってお茶を飲んだり食事したりするなんて、客が誰もいないからこそできることだ。こう緩くていいのかと思いつつも、気遣う相手もいない中気を引き締め続けるなんてこともできるはずもなくて。まあいいか、と思ってしまうあたりに自分の堕落性を感じてしまう。


 昼になっても客は1人も現れなかった。毎日来ている常連客も、さすがに出掛ける気にはならないようだ。まさに開店休業の状態で、3人は時間を持て余していた。
 3人とも進んで喋るほうではないので、店内は静まり返っていた。外の雨の音だけが耳に届く。
 ジェラールはメレンゲを作っていた。無論、ロビンの手伝いだ。泡立て器を必死になって動かす。温めながら立てるのがコツだというが、それでも魔法のような効果を発揮するわけではない。勢いよく掻き混ぜては、疲れで手を休める、と作業を延々と繰り返し、正直少々うんざりしていた。
 ここ、“夜想曲”は紅茶とシフォンケーキのみを提供している喫茶店だ。バイトの身であるジェラールは当然そのケーキの作り方を覚えなければならず、こうしてボールと泡立て器を持たされた。しかし菓子作りなど、姉が作っているのを見ていた程度でやったこともない。
 なんとか奮起して卵白と戦っていると、不意にロビンが手を伸ばして腕を掴んだ。角を立てて出来具合を確認してみるが、すぐに頭を落とした。――素人目に見ても、まだ充分ではないのに。
「なん――」
「しっ」
 尋ねようとして遮られた。言葉を封じられたことに訝しみながら目線で訴えると、彼は部屋の隅を示した。
 窓辺にイリスが座っていた。膝の上に黒猫のルイを寝かせ、窓の外をぼうっと見つめている。憂い顔にはいつの間にか眼鏡が掛けられていて、銀の虹彩を青く染めていた。
 薄い唇が開かれて、音を紡ぐ。
 擦れた声の内容ははじめ不可解であったが、耳が慣れてくるにつれ、それが旋律であることが分かってきた。
 歌だ。
 シレーヌの歌。
 ジェラールの甥がかつて聞いたことがあるというシレーヌの歌。聴いてみたいと思っていたが、歌ってくれととても頼むことはできずにいた。それを今、思いがけず聴いている。
 歌声は朗々と響くものでなく、囁きに近かった。しかし、何故かよく通る。壁一枚隔てているのに入ってくる激しい雨の音すら掻き消し、客の居ない店内を支配した。

 雨は私の庭を濡らし
 涙に打たれて花散らす
 それは貴方のくれた種
 それは私の消えた夢

 意外にも失恋の歌だった。恋など似合わないどころか知っていそうにもないイリスだが、その声には情感がこもっている。聴いているだけで、悲しく、寂しく、侘しくなってくる。思い出されるのは、故郷に置いてきた姉と甥。大切でないわけでも可愛くないわけでもないが基本的にそういうところは淡白なジェラールが、日常の中で家族を思い出すことはほとんどないはずなのに。
 聴衆の心を支配する歌。人々を惑わせるそれは、確かにシレーヌの歌だった。
 ぼんやり口ずさんだだけだったのだろう。イリスはこちらの反応を伺うことなく、適当なところで歌うのをやめ、また雨の降る窓の外に見入ってしまった。
「歌を売りにすればいいんじゃないか?」
 余韻から醒めてジェラールは言う。あれだけの歌であれば、老若男女、金持ち貧乏関わらずやって来るだろう。そう思ったのだが、ロビンは小さく笑って否定した。
「イリスには無理だよ」
 何故無理かは言わなかった。けれど、なんとなく予想はつく。彼女は珍しい瞳の色を理由に他人との接触を避けたがる。注目を浴びるのが嫌なのだ。
「因みに、レラの前でも歌ったことないよ」
「えっ」
 意外な話に驚く。この店の常連客であるレラ――オーレリアは美しいものが好きだと公言していて、当然イリスのことを気に入っている。そんな彼女がイリスの歌に興味を持たないはずがないのに。
「というより、歌が巧いことを知らないと思う」
「ああ……」
 納得した。知らないというより、あえて知らせていないのだ。知ったときの彼女の食らいつく様は想像に難くない。きっとうんざりするくらいの勢いで歌えと迫ってくるはずだ。そんな目にイリスを合わせたりしたらどうなるか。
「得したね、ジェラール」
 確かに得だ。せがむことはできないだろうが、気紛れに歌った彼女の歌を独占することができる。そう思えば、大衆に聴かせるなど勿体ないように感じてしまう。
 そこでふと気付いた。
 もしかすると、他ならぬロビンがそれを望んでいるのかもしれないということに。



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