第10章 誰そ彼


  1.

 シャナイゼの北――円形の街を時計に例えるなら、〈木の塔〉を中心として11時から2時の辺りは、〈木陰〉と呼ばれていた。日中、大樹の陰となるからと安直に名付けられたその区域は、俗に言う暗黒街である。違法の品が飛び交い、違法な集団が存在する。いささか荒んではいるが、無法地帯ではないため、拐われて人売りに出されたりということはあまりない。
 それでも、昼日中とはいえ、若い女がひとりで出歩くような場所ではない。
 リズは〈木陰〉の道の真ん中をひとりで歩いていた。人通りは少ないが、決して皆無ではなく、建物に凭れたチンピラ風の男が飢えた眼差しで通りの様子を伺ったり、通りすがりの男が下卑た目で彼女を見て薄ら笑いを浮かべたりしている。だが、彼女は意に介すことなく、平然と道を歩いていた。
 やがて、リズは1つの建物の中へと入っていく。灯りのない、昼間ですら暗闇に等しい明るさの廊下を少し歩くと、ぼんやりと光に照らされた看板が見えてくる。〈洞〉と書かれた看板はデザインからして、バーのよう。一応酒の飲める年齢に達している彼女は、躊躇いなくその扉を開けた。
 中もまた薄暗い。赤や紫などの色のついた光源を不便でない程度に暗くしたその部屋は、官能的であった。しかし、いるのはカウンターの中に不気味な老人と、その席の端に若い男が1人。どちらも目付きや身なり、物腰からしてまともな職種の人間ではない。
 リズは老人に近づく。
「これはこれは。よくぞいらっしゃいました」
 リズがなにかを言う前に、老人は恭しく頭を下げた。恭しく、とはいっても、礼を尽くす気はなく、馬鹿にした風である。慇懃無礼、といったところか。
 常に人を馬鹿にしたような喋り方をする老人であるが、リズはこの人が結構好きだった。ごくたまにだが、茶を飲んで話すこともある。
「はじめて行った沙漠の向こうは如何でしたかな?」
 キルシアへ行くことになったことは話していなかった。けれど、知っているからといって特に驚くことでもない。この〈洞〉はバーを模した闇組織。基本的には情報屋として活動しているが、窃盗や暗殺、その他もろもろの件で動くこともある。
 もちろん、リズに窃盗や暗殺の要件などない。欲しいのは情報だ。
「ま、楽しかったよ、なかなかに。でも、あんたたちに話す程ではないかな」
 キルシアでの仕事は、護衛対象だった依頼人に迷惑が掛かりそうなので、言いたくない。手記盗難のことは、実はこの〈洞〉は絡んでいるために、進んで情報を集めているだろう。こちらで特に話すことはない。ああ、でもルクトールのことは話しておこうか。
「それは残念。土産話を楽しみにしておりましたのに」
 悩んでいると、老人がとりあえず話を後回しにしてくれた。悩む時間ができた。有り難い。
「さて、本日のご用件を伺いましょう」
 頷いて、口を開こうとすると、
「ちょっと待ったじいさん。こんな小娘が客だっていうのか?」
 カウンターの隅でふたりのやり取りを眺めていた男が、席を立ってこちらへと来た。ここにはたまに来るし、仕事以外でも(主にグラムが)交流があったりするので、知り合いが多い。が、この男は見たことがなかった。
 第一印象、小物っぽい。
 ちゃらいというか、舐めてるというか、裏社会にいるだけで優越感に浸っているような、頭の悪い男に見える。ついでに言えば、弱そうだ。隙が多いし。
 いったいなにを期待しているのやら、男は舐めるようにリズの頭から足の先まで見ていた。
「……新入り?」
「ええ、余所者でして。躾がまだできていません。容赦をしていただきたく」
 リズたちが沙漠の向こうに行っている間に入ったようだ。
「別にどうでもいいけど。で、用件だが……」
「なあ、ちょっと待てよ。少しは構ってくれたっていいだろう?」
 こちらが仕事の話をしようとしているのに、肩に手をかけてくる。その手を振り払って突き飛ばした。さすがに汚いとまでは言わないが、知らない相手に親しげに触られて、気分がいいわけがない。なにを考えたのかは知らないが、欲求を満たすにはリズでは不十分だろうに。だいたい、この〈木陰〉で気を抜いたら下手すると骨まで残らないのだから、簡単に気を許すわけがない。
 だが、突き飛ばされたほうは頭に血が上ったようだった。顔を真っ赤にしてリズを睨みつける。
「お高く止まりやがって。いい度胸してるな、女ぁ。今すぐ泣かせてやるから覚悟しろ」
 突っ込みどころは満載だったが、なによりも、聞いたら明らかに笑ってしまうようなことをいうものだから、驚いてしまった。
「うわ、なんだその、今どき三文小説ですら言わない台詞」
 ――あ、言っちゃった。
 もともと人を挑発してしまうほうだから、口を吐いて出てしまった。ますます男の顔が赤くなる。
「およしなさい。彼女は貴方が考えているような方ではありませんよ」
 老人が男をやんわりと窘める。もう少し真剣に止めてくれてもいいんじゃないかな、と思った。
「魔術師だってんだろ? だったら魔術を使う前にやっちまえばいいだけの話だ」
 リズは溜め息を吐いて老人を見た。制止の言葉を掛けたものの、本気で止める気はないようだ。ならば仕方がない。リズは杖を構えた。
「へぇ、やる気まんまんってか。後悔するなよ?」
 ――するか馬鹿。
 もはやなにも答える気も起きなかった。代わりに杖をくいっと動かして、相手を挑発する。
「覚悟しろよォ……」
 こちらを侮ってにやにやと短剣を見せびらかし、リズに踊りかかろうとする寸前、動きが硬直した。
「動くな」
 男の喉元に、鈍い輝きを放つ刃が当てられた。その背後を見て、リズは軽く驚いた。
「なにしてんの、あんた」
 扉を軋ませることなくどうやって入り込んだのか、いつの間にかウィルドがそこにいた。相変わらず神出鬼没な男である。そんなに背が高くて、それなりに見られる顔をしているくせに、どうしてそう気配を殺せるのか。
 そのウィルドは、男に刃を突きつけたまま呆れた顔をしてみせた。
「貴女を追ってきたに決まっているでしょう」
 リズは肩を竦めた。早い話が心配されているわけだ。いささか過保護すぎやしないだろうか。
「な、なんなんだよ、お前っ」
 突然現れた男に、突然剣を突き付けられてさすがにびびったのか、男は声をを引き攣らせていた。気配もなかったのだから、さぞかし驚いたことだろう。
「黙りなさい。なにも言わず、大人しく武器を置きなさい。それ以外は妙な真似をしないように。さもなければ、斬ります。
 ああ、一応言っておきますが、そのようになった場合、誰も貴方を助けませんよ」
 男は弾かれるように老人を見るが、老人は彼の期待も虚しく黙って肯定した。そりゃあ、見捨てるだろう。この程度の挑発で女に斬りかかろうとするようでは、使えないのは目に見えている。簡単に人を侮るし。
 ウィルドの言葉が真実だと知った男は、大人しく従った。
「で、用件なんだけど」



44/124

prev index next