第1章 王子脱走


  1.

 新緑が美しいこの季節は、気候がとても穏やかだ。
 ラスティは木の上に上って、遠くで新米騎士たちが剣の訓練をしている音に耳を傾けていた。剣のぶつかり合う音が、自分が新米だった頃を思い出させる。
 アリシエウス。東に広く展開している大国リヴィアデールと大陸の西側を占めるクレールに挟まれるようにして存在するこの国は、森の中に城下町ひとつしか存在しないというとても小さな国だ。身分の差や多少の貧富の差はあれど、国民が皆、活気に満ちた生活を送っている。
 そのアリシエウスの城の一角で、国王に仕える騎士を務めているラスティ・ユルグナーは惰眠を貪ろうとして木の上にいた。日差しも風も心地よくまさに昼寝にはうってつけなのだが、いかんせん真面目とはとても言い難い勤務態度である。
 罪の意識などを感じることもなく、ただ眠気に誘われるまま、意識を手放しかけたのだったが。
 芝生の上だというのに、やたらと大きな足音を立てて歩いてくる人がいる。それも複数。心当たりはあるが、ラスティは無視を決め込むことにした。せっかくの惰眠の機会を逃したくない。
 しかし、そんなラスティの心の内など知らず、その誰かはラスティの名を呼ぶ。
「いるんだろ? 頼むから出てきてくれよ」
 ラスティを呼ぶ声はふたつ。両方とも聞き覚えがある声だ。
「王子がいなくなったんだよ、また」
 ――だと思った。
 予想通りの用件に、ますます下りる気はなくなった。
 ――いつものことじゃないか。
 声に耳を傾けることなく、目を閉じようとする。が。
「陛下が御冠なんだ」
 耳に入ってしまった駄目押しの一言に、起きざるを得なかった。
 すべり落ちるかのように木から飛び降りると、偶然にもやってきた2人の目の前に着地した。紺色の動きにくそうな鎧を纏った男たちであった。歳は20。髪、瞳ともに青みがかった黒という、ラスティと同じ、典型的なアリシエウス人の出で立ち。1人は背が高くがっしりしていて、もう1人は平均的な身長で、少し釣りあがった目。
 デイビッドとクロード。ラスティの同期同僚である。どうやら仲が良いらしく、2人で行動していることが多い。そして、いつもそろってラスティの前に現れるのだ。厄介ごとという手土産を携えて。
「うぅわ……、びっくりした」
「いきなり降ってくるなよ」
 クロードは目を丸くしたまま固まり、デイビッドはラスティを睨みつけた。
「知らん。そこにいるほうが悪い」
 ラスティは素っ気なく応じる。昼寝の邪魔をされて、機嫌も悪い。片手を腰に当て、前髪の間から冷ややかな視線を送る。
「勤務中に昼寝するほうが悪いんじゃ……」
 クロードがなにやらぶつくさ言っていたが、ラスティは取り合わなかった。
「それで? 陛下が御冠だって?」
 デイビッドはラスティがようやく耳を傾けてくれたことが嬉しかったのか、何度も頷いた。
「そうなんだよ。ディレイス王子に話があるそうなんだけど、見当たらなくて……」
「また逃げたんだろう。いつものことじゃないか」
 アリシエウスの第二王子であり、現王の弟に当たる、ディレイス・ロウ・アリシエウス。幼いころからの趣味は脱走、そして街遊びという王族にはあってはならぬ問題児。しかも、今年で21だというのに改善される様子は一向になく、臣や官たちは未だに手を焼いている。
「だから、たまたま王子を探していた陛下とすれ違った俺たちが捜索を頼まれたんだ」
「それは御苦労だな」
 同情し、労う。
「……それだけ?」
「ああ」
 同情するだけだ。
「手伝ったりしてくれないのかよ!」
 デイビッドが近くで怒鳴るので、数歩後ろに下がった。
「なんで、俺が」
「そりゃもちろん、お前が王子の親友だから」
「……」
 ラスティは顔を顰めた。
 ユルグナーは中流貴族。父が文官を務めているだけあり、幼いころから城に出入りする機会があった。彼が5つのときに父について初めて城を訪問した際にディレイス王子に対面し、歳が近いこともあってか友人関係を築くことになった。
 そこまではまだいい。ラスティ自身、ディレイスのことは、気の置けない友だと思っている。だが、度々ディレイスに振り回された所為で、奔放な王子の行動を把握している唯一の人物として、こうした面倒事を押し付けられるのは、非常に困る。
「……面倒くさい」
 抵抗するが、彼らは耳を貸さない。
「いいから行けって」
「そうだよ。さもないと陛下がなんておっしゃられるか……」
「悪いのはディルだろう」
 ああ、と嘆息するふたりに付き合うのも面倒臭くなってきて、吐き捨てる。
「どんなことになるか承知で出掛けたんだろう。いつまでも俺が面倒見てやる義理はない。もちろん、お前たちに協力するのもだ」
 確かにディレイスは友人だ。守るべき主でもある。しかし、それとこれは別。ディレイスも、いい加減自分の面倒くらいみれるはずだ。
 言葉が辛辣になっているからか、クロードがおどおどしだした。早く探してきて欲しいが、ラスティの怒りにも触れたくないというところだろう。彼は気が小さい。
 デイビッドがなお説得を試みようとするが、
「そうだな。確かにラスティのいう通りだ」
 ラスティの背後から第三者の声が掛かった。
 ちょうどその人物が見える位置にいるデイビッドとクロードは蒼い顔で凍り付いて、口をパクパクさせている。
 誰がいるのか予想が付いて、心の中で溜め息を吐いた。まさか振り返らぬわけにもいかないので、振り返る。
「陛下ぁっ!」
 慌てて2人が頭を下げるが、ラスティは立ちつくしたまま。しかし微かに顔を引き攣らせた。
 見ただけで高価とわかる飾りの多い衣装に身を包み、綺麗な黒髪に群青の瞳を輝かせている人物が、ラスティとは違って無愛想な感じはないが何を考えているのかわからないような表情でそこに立っていた。
 ハイアン・ラウ・アリシエウス。この国を治める王その人である。
 お騒がせコンビは、がちがちに固まっていた。偶然通りがかったからというのが人選理由であったとはいえ、王から直々に任された仕事をせずに油を売っているところを本人に見られたのだから、相当冷や汗を掻いているはずだ。
「だが、私も急いでいてな。できるだけ早く、奴に帰ってきて貰いたいんだ。早急に頼む」
 デイビッドとクロードのふたりに宛てた言葉のわりに、ラスティのほうを見ているのは何故だろうか。
「……私も行くのですか、やはり」
 しぶしぶといった感じでラスティは尋ねる。
「当たり前だ。特に仕事もないんだろう?」
「放っておいても良いのでは? どうせすぐに帰ってきます」
「……そんなに面倒臭いのか?」
 図星だ。ラスティは言葉に詰まった。
 弟のほうと付き合いがあるのだ。となれば、兄のほうともそれなりに付き合いがあるのは当然といえば当然で、だからハイアンもラスティの性格をしっかりと把握している。
「……いえ」
 だが、知っているとはいえ、仕事中に主の前で面倒臭いとは言えるはずもなく、なんとか否定の言葉を絞り出した。
「それでは頼む。1時間以内に連れ戻してくれ。さもないと、どうなるかわかるな?」
 1時間はないだろう、と抗議しかけて、ハイアンの顔を見て、口を閉じた。一見穏やかそうに笑う国王の額に青筋が浮いているのを見つけたのだ。そういえば、御冠だと言っていたか。
 承りました、と素直に頭を下げると、ハイアンは去っていく。
「……城を抜け出す王子など、物語のなかで充分だ」
 急がなきゃ、とふたりが騒ぐ隣で、ラスティは空を仰いだ。
「いったい、なにがあったんだ……?」



3/124

prev index next