第18章 アリシエウスの陰に


  1.

 腰を下ろしている椅子に片足を乗せ、窓枠から通りを見下ろす。家の敷地を仕切る塀の間の石畳の小道――と言っても馬車1台通れるほどの幅がある――は一見日常と変わりないように見えるが、やはりところどころ違った。例えば、保安のために見まわっている兵がクレールの兵だったり、脳天気に姦しかった令嬢たちの顔が曇っていたり。
 占領されたルクトールに戻ることのできなかったラスティたちは、再びアリシエウスへと戻ってきた。行く宛が他になかったというのもあるが、兵たちの撤退した先がここアリシエウスだったのである。ルクトールを襲った合成獣について調べるため、あえてこうして居心地の悪い故郷に留まっていた。
 今拠点としているのは、他でもないラスティの実家だ。どうするかと街を彷徨っていたら、妹に見つかり、そのまま家に引っ張りこまれてしまった。突然家出をして、大事な時には何もせず、突然帰ってきた息子に父はかんかんに怒ったがそれ以降はなにも咎められることはなく、母は涙を流して迎え入れてくれた。そしてレンと2人、ここに身を置いている。アリシアは、また何処かへと消えてしまった。
 それから1週間。母や妹や、気が進まないながらも父からも街の様子について聞いているが、望むような情報は得られていない。代わりに得られたものは、クレールの兵がこの地に増えつつあることや、アリシエウスの民の何人かが姿を消したということくらいだった。クレールの支配を拒んだ末の逃亡だというのが父をはじめとしたアリシエウスの文官たちの見解だ。
 ノック音が響く。どうぞ、と不愛想に言って、扉が開くのを待った。
 入ってきたのは、母エステアだった。
「良ければ、一緒にお茶でもしませんか?」
 初老に差し掛かり黒い髪に白い物が交じり始めた母は、落ち着いた紫の服を身に纏い、柔和に微笑んだ。
 断る理由もなかったので、ラスティは承諾した。中に入れようとして、自室のテーブルの上が散らかっていることに気付く。ちょうど4,5人が座ってお茶を飲めそうな広さのテーブルの上には、アリシエウスの市街図や周辺の地図、筆記具、その他旅の持ち物などが広げられていた。
 急いで片付けようとしたラスティを制して、エステアは下へ招いた。そういえば、茶器を携えた女給がいない。もともと部屋で飲む気はなかったらしい。
 ユルグナー家の食堂は、室内の雰囲気からして暖かい。壁紙はオレンジ色に淡く色づいて、絨毯は赤い。天井は高めではあるが、灯りは若干低めに取りつけられていて、暖かみのある色が室内に降り注いでいる。窓を飾るカーテンの色は白。食卓や部屋の隅には、明るい色の季節の花が生けられている。これは全て母の趣味だ。この家の内装のほとんどは、エステアによるものである。
 ラスティたちが席に着くと、女給たちは茶器と菓子を出し始める。陶磁器のカップと皿には、小さい花で縁取りされていた。これも母の趣味。
「あの小さい子はいないのね」
 夏だからと冷やされた褐色の液体が注がれたカップを取り上げ、香りを楽しんでから、口を着ける前に母は切り出した。
「レンは今、外に出ています」
 彼は今も、街に情報を集めに行っている。ラスティも行きたいところだったが、敵前逃亡や売国奴の疑いを持たれている自分に親切に話をしてくれる者などいないだろう。アレックスの誤解も結局解くことができていない。ただ1人、クロードが手を貸してくれているので、それは救いとなっている。
「そう。……あの子はとてもいい子ね。貴方が帰ってきてから何度も話したけれども、とても楽しかったわ。それに比べて、貴方は全く話をしてくれなくて……」
「……すみません」
 確かに、帰ってからはあまり母と話をしていない。街に出ているか、レンと部屋に籠もって話をしているかだった。合成獣に関してももちろんだが、ラスティ自身の問題も、未だに残っているのだ。
 考えなければならないことも、やらなければならないこともたくさんある。母と過ごす余裕がない。――だが、忙しさを理由にして良いものか。
「責めたのではないのよ。貴方は昔から話をしない子だったから。それを寂しく思わなくもないけれど、貴方はそれでいいのよ。まったく、だんまりなところはあの人にそっくりね」
 エステアは苦笑した。あの人、とは父のことだ。似ている、と言われラスティは少々複雑になった。ラスティは父との仲があまり良くない。
「だから嬉しいわ。今日は付き合ってくれて」
 本当に心底喜んでいる母の顔から眼を逸らし、手元へと視線を落とした。
「そういえば、もう聞いたかしら。ルクトールがクレールから奪還されたそうよ」
 カップを取りかけたラスティの手が止まった。
「ルクトールが?」
「ええ。リヴィアデールの軍によって」
 溜息が漏れる。カップを取りかけたまま止まった手は、結局そのまま引っ込めてしまった。褐色の水面をぼんやりと見つめる。
 彼の街から逃げてきたことを思い出す。ずっと気になってはいた。事情があるとはいえ、仲間を置いて戦場から逃げ出した事実には変わりない。〈木の塔〉の人たちを失望させてしまったかもしれないこともそうだが、それよりも彼らがどのような処遇に置かれていたのかが凄く気になっていた。クレールの支配から解放されたというのなら、ひとまずは安心といったところか。
「正直、羨ましいわね。ルクトールは取り戻してくれる国があるけれど、この街は……アリシエウスにはないから」
 エステアは視線を窓に向けた。そんな母の言葉にラスティは項垂れる。
「ハイアンも……国王も亡くなってしまわれました」
 自らの手で守ると決めたもの。いざというときには手が届かず、そのことをずっと悔んでいた。だが、自分が悔しいだけでは済まなかった。ハイアンとディレイスもいなくなったことで、アリシエウスの民の多くが不安に苛まれている。
「そうね。そのことで、アリシエウスはクレールに立ち向かう気力を失ってしまったわ。アリシエウスが国として戻ることは、もしかしたらもうないのかもしれないわね」
 唇を噛んだラスティにエステアは向き直り、そして微笑んだ。悲しげな笑みであったが。
「貴方1人の責任ではないでしょう。1人気追うこともないのよ。
 それに私は……こんなことを言うと貴方やあの人に怒られるかもしれないけれど、貴方たちが無事に元気で生きてさえすれば、どのような環境でも構わないの。だから、あまり無茶なことはしないでちょうだい」
 最近のラスティの行動について言っているのだろう。あまり顔を合わせず、言葉を交わすことも少ない。だが、いや、だからこそ、母はラスティがなにをしようとしているのか、おおよそのことを察しているのかもしれない。
「……はい」
 母には心配をかけてばかりだ。自分のことばかりで親孝行する余裕もないことを情けなく感じ、そんな自らを悔いるばかりであった。



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