第14章 翳りゆく世界 3. あと1つ、大事な事がある。 「それから、その……頼まれたものは借りられなかったの」 「ああ、セルヴィスの手記のことね。その件はもう済んだ」 「済んだ?」 予想外の言葉にいぶかしむ。 しかし、クラウスはユーディアの疑問を解消してくれるような言葉はなにも言わず、立ち上がった。 「座るといいよ。お茶でも飲むかい? 冷めてるけど」 「え?」 クラウスはユーディアの傍に置いてあった椅子を指し示すと、空いたカップにポットの中身を注ぎ、彼女に手渡した。そうして自身は行儀悪くも机に腰掛ける。仕方なく口をつけると、確かに冷たい。 「最近神殿内も慌ただしくてね、気の休まる時間がないったら。家に帰れないときすらある」 やれやれ、とクラウスは肩をすくめた。言われてみれば、彼の顔に疲労の色が見て取れる。一連の動作も何処か鈍い。普段はきびきびと動いているというのに。 「忙しかったの?」 「現在進行形でね。戦争なんて始めたから、こちらも忙しくなってきたんだ」 口元に近付けていたカップを下ろす。 「……やっぱり、アリシエウスの襲撃には神殿も関わっていたんだね」 久しぶりに幼馴染と会えたことによる興奮や喜びも、今ではすっかり冷えてしまった。 「アリシエウスは知っての通り都市国家だし、兵の規模もそんなに大きくないことは知っていたから、さほど苦労はしなかったんだが……」 クラウスの口から次々と言葉が続けられるにつれ、ユーディアの表情は自然と曇っていった。あの国に与えられた痛みは、こちらの苦労もなくつけられたのだ。傷つけるのはとても容易い。傷つけた者は傷つけられた者の痛みを理解することはできないのだろうか。 ラスティに詰め寄ったアレックスとクロードの悲愴が今も耳に残っている。 「でも、探し物は見つからなかった」 ふと、顔を上げる。 「アリシアの剣のこと?」 「知ってるのかい?」 ユーディアはほぞを噛んだ。普通なら知りようのないことだった。 「えっと……旅先で噂を」 「そう。 どうやら誰かが持ち逃げしてしまったらしくってね。斥候だった国軍兵士がそれに気付いて追いかけたらしいんだが、みんな殺されてしまったよ。それからは行方不明さ」 持ち逃げした誰かというのは、ラスティのことだろう。しかし、まさかクレール兵を殺害していたとは。それとも、レンだろうか。彼とはアリシエウスを出たときからずっと一緒だと言っていたし。 「……捜索のほうは?」 彼は今、ルクトールにいる。クレールに非常に近いところだ。もしかしたら、見つかってしまうかもしれないという懸念に駆られる。見つかって、レンとふたり殺されてしまったら、と考えてしまうと恐ろしい。 「あまり捗っていないみたいだね。国軍は無能だから、期待はしてないけど」 ユーディアは安堵したと同時に顔を顰めた。先程から話を聞くに、クラウスはどうもこの事態に深く関わっているように見える。このクラウスとは長い付き合いだ。互いにどんな人物かは知っていたが、まさか戦争に関心を示しているとは……。 「不満そうだね。戦争が嫌かい?」 そんなユーディアの顔色を見たのか、彼は尋ねる。 「国が自分の友人を傷つけるとわかって、愉快ではいられないよ」 ユーディアはクラウスから顔を逸らす。彼ばかりを責めるのは筋違いだろう。 「……それもそうだね」 クラウスは眼を伏せる。少し罪悪感が生じたが、気を取り直してもう一度同じ質問をぶつけてみた。 「ねえ、クラウス。さっき、手記の件は済んだって言ってたけど……」 盗まれた手記が〈木の塔〉に返されない限り、この件は解決されないように思われた。それなのに、欲しがっていたとはいえ、基本的に無関係なクレールの神殿が事態を解決させるとは、とても考えにくい。 「手に入れたんだ。今は私の手元にある」 「そんなまさか! だって、手記は盗まれ……っ」 そこで気付く。盗まれたものを手に入れる方法はひとつしかない。 「買ったの? 泥棒から?」 クラウスはなにも言わず、ただユーディアを見つめる。肯定しているのだ、とユーディアは悟った。 「今すぐ〈木の塔〉にそれを返して」 声を荒げてしまいそうなのを、なんとか抑えて言う。ただでさえ悪化しているこの状況に、更に禍根を残す事態になるかもしれない。いや、それ以前に、過去の英雄が犯した過ちを、この友人に繰り返して欲しくない。 「それはできない。私にはこれが必要なんだ」 しかし、ユーディアの想いに反し、クラウスの返事はにべもない。 「それがどういうものか、わかって言っているの?」 「現在では禁じられてしまった秘術が記された、大魔術師の手記」 「わかってるなら……!」 言葉を飲み込む。興奮で熱くなった頭でも、考えられることはある。 「なにを企んでるの」 禁術が書かれている本を、クラウスは必要だと言った。それは、禁術を使う予定があるということではないだろうか。ユーディアは禁術にどんなものがあるかはよく知らない。ただ、あの双子が使う召喚術がかつてその1つであったこと、それから魔物やアーヴェントのような魔族を生み出す原因となったものもあることを知っているくらいだ。 だが、前にフラウ――アリシアが言っていなかっただろうか。禁術を使う者は闇神に裁かれる、と。それほどのものであることは、ミルンデネス中を蔓延っている魔物から容易に伺い知れる。魔物が出現してからというもの、世の中は大きく変わってしまった。 ユーディアが睨み付けるのを、クラウスは笑って受け流した。 「それはまたおいおい教えるとするよ。君には、僕の右腕として働いてもらうことになるだろうから」 ユーディアは返事をしなかった。 「もう帰って、ゆっくり休むといい。明日から忙しくなる」 [小説TOP] |