第13章 すれ違い、遠ざかる


  4.

 夜。
 オルフェは借り住まいの部屋をあとにした。手には僅かな荷物。武器や衣類に食糧、それから数冊の本。
 意外にも自分は研究者としての生活が性に合っていたらしい。人々が自分たちのことをどのように見ているのかが気になって、成り行きで〈木の塔〉に入ったのを良いことに調べ始めたのがきっかけ。初めはあまりにも突拍子もなかったので呆れていたのだが、だんだんその解釈が面白く感じられ、歴史書や伝承、叙事詩に抒情詩と読み漁るようになった。人々はどのように考えて生きてきたか、なにを望んでいたのか、それを読み解くのに夢中になっていた。
 ウィルドとしてこの街で過ごした3年は、1000年以上生きてきた中で一番幸福を感じられた時間だった。この本はその未練といったところか。研究は組織に所属していたほうが便利ではあるが、できなくなるということはないので、事が落ち着いたらまた取り組むのもいいだろう。
 未練なら、もう1つあるが。
 こちらはこちらでどうすることができないものだ。いくら願っても時の流れはオルフェを置いていくし、エリウスの束縛からは逃れられない。
 ウィルドにできるのは、できるだけ早くここを立ち去ること。
「……全く、人の気も知らないで」
 リズの言葉を思いだし、ウィルドはひとりごちた。死にたがりではないくせに、あんなことを言う。するとなったら本気でそうすることを知っていて。自分がどれだけそれを避けたいと思っているのか知らないで。
 寮の扉を開けて、外に出る。夏が近づいて、日暮れてもなお温い風がオルフェの頬に当たった。
 シャナイゼの夜は、街灯しか照らすものがない。星も月も枝葉に遮られる。空が見えないというのは、より夜を暗く感じさせるらしい。この街に慣れぬ者は、街灯があるというのに闇に恐怖を感じるのだそうだ。
「行くのか」
 どうやってこの場を探り当てたのか、寮から一番近くにある街灯の下でレティアがオルフェを待ち構えていた。暗がりの中で、彼女の姿だけが光り輝いているようだ。光神の名、そのままに。
「ええ。役目は果たさねば」
 対し、自分は闇の中にいる。星明かりさえ遮られた、暗い暗い闇の中。夜更けと言うにはまだ少し早い時間。この時間、街は賑やかということもないが、全く人が通らないわけでもない。それなのに今晩は人影ひとつ見当たらず、不気味なほど静かだった。
「望んだ道か?」
「選んだ道です」
 はっきりとオルフェが応えると、レティアはやれやれと頭を振って溜息を吐いた。
「ここまで、頭が固いとはな。お前のような奴を馬鹿と言うんだ」
「どういう意味です?」
 オルフェは眉根を寄せた。不快であるのはもちろんだが、そう言われる理由がわからない。だが、レティアは再度溜め息を吐くばかり。
「解らないならいい。行くぞ」
 金色の髪を翻して、女神は行く。街灯の下から離れても、その髪は闇の中でなお目立った。その後ろをオルフェは闇に溶けるようについていった。道中会話はなく、黙々と2人は歩く。
 街を遠く離れるまで、オルフェは一度も振り返らなかった。

 いつものように研究室に遊びに来て、グラムの顔は引きつった。手前の円卓でリズが頬杖をついたままあらぬほうを見つめて呆けている。それを椅子をひとつ空けた状態で気遣わしげにリグがちろちろと見ていて、クラウジウスは気付いているからだろう、あえて熱心に自分の作業をしている。ジョシュアはいない。
 グラムは扉の前に立ったままリグを手招きして、事情を訊いてみた。
「それが、ウィルドの奴がな」
 理由はしっかり妹から聴いていたらしいリグから簡潔に解りやすく教えてもらう。
「それであんな意気消沈してるのか……」
 聴いて納得したグラムはそっぽを向くリズに目を向けた。あの2人は仲が良く、気も合っていた。親しい人間がいなくなることはかなりショックだったろう。彼女は、淡白なところはあるが、基本的に家族や友人を大事にするタイプである。
「まあ、他にも色々と余計なこと考えているんだろうけど」
 どうやらリグはグラムが知り得ないところまで彼女の苛立ちを理解しているようだった。それはやはり的確だったようで、余計な御世話だ、とこちらを見ずにリズが毒づく。リグは肩を竦ませた。さすが双子の兄妹。
「ウィルドの奴も、なに考えてるんだかなぁ……」
 いつからそうだったのか知らないが、ウィルドがリズに好意を持っているのはもはや確認するまでもない。リズを気に掛け、時折本人に過保護だ、とうざがられていたくらいだ。それなのに殺害宣言をしていくなんて、グラムは到底信じられなかった。正直にいえば、ウィルドが去っていったのも信じられない。グラムたちの仲は、あれだけうまくいっていたのに。
「さぁな。おおかた意地でも張ってるんじゃないか? 無駄に生真面目で頑固者だから」
 グラムは頬を掻いた。どうやらリグも機嫌が悪いらしい。言葉の端々に棘がある。仲間と認めてはいるが、リグはウィルドに対して厳しいところがある。それは過去に殺されかけたことによる不信感から来るわけではなく、妹を必死に守るお兄ちゃんといったところだ。ウィルドを時折牽制していた。その理由はまあグラムにでもわかるのだが、しかし離れたら離れたで怒るとは、いったいどういうわけだ。
 兄しかいないグラムには、同い年とはいえ妹を持つ兄の気持ちを理解できなかった。
「で、どうするんだよ」
 追い掛けて連れ戻すか、放っておくか。普通なら連れ戻すほうへ向かうのだが。
「どうするもこうするもないね。どうせ西に行かなきゃいけないんだから」
 戦場に行くから奴の事は知らん、とリズは言う。グラムはがっくりと頭を垂れた。
「あのさ……もうちょっとさぁ……」
 怒っているということは、少なからず情があったということだろうに。裏切られた、酷い奴だ、と悲しむタイプでないのは知っているが、そこまでドライなのはちょっとどうかと思う。半分は強がりにしても、同じ立場ならもう少し未練を持ってほしいものだ。ウィルドもこれを知ったら複雑になるのではないだろうか。
 男心を知ってか知らずか、リズはふん、と鼻を鳴らし、
「会ったとき、死ぬ前にたっぷり嫌がらせしてやるからいいんだ」
 説得や力ずくではなくて嫌がらせ。リズらしいといえばリズらしいが、恐ろしさは禁じ得ない。それにしても、死ぬことは大前提なのか。殺されないかも、とは微塵も思っていないらしい。
「……怒ってんなぁ」
「当たり前だ」
 そう応えてから、リズの表情がふと翳った。そのまま口を固く結ぶ。
「こっちも素直じゃないな」
 グラムにしか聴こえない声でぽつりと呟いて、リグは妹の肩に触れて慰めに掛かった。
 同感だ、とグラムも思った。



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