第14章 翳りゆく世界


  4.

 ユーディアが去った部屋。クラウスは椅子に凭れかかり、息を吐いた。
 まさかユーディアが、セルヴィスの手記が〈木の塔〉から盗まれていることを知っているとは思わなかった。〈木の塔〉は隠し通すと思っていたから、言い訳を考えていなかったのだ。お蔭で、ユーディアに不信感を持たれてしまった。そのうえ、アリシアの剣のことについても知っているらしい。いったい何処でそんな話を聞いたのだか。
 彼女がなにも知らなかったほうがよかったが、仕方がない。真面目で正義感が強くて、その癖流されやすいから、結局はクラウスに協力してくれるはずだ。
 優しすぎるその性格から来ているそれを利用するのはなんだか気が引けるが、クラウスには彼女が必要である。クラウスがユーディアに対してそうであるように、ユーディアもまた誰よりもクラウスのことを把握しているのだ。彼女以上に相性のいい補佐がいるだろうか。
 扉をノックする音が響く。
「どうぞ」
 入ってきたのは、異邦人の男。20代半ばか。少し長い髪を無造作に垂らし、黒ぶちの四角い眼鏡を掛けていて、一見して陰気な印象を受ける。神殿の者ではない。クラウスと個人的な付き合いのある者だ。
「奴らが逃げた」
 奴ら。手記を持ってきた人物を指すのだと気付いた。
「そう。追っているんだね?」
 まさか指示を仰ぎに来た訳ではないはずだ。そんなこともいちいち聞いてくるような人間なら、そもそも協力関係になど、なりはしない。
「すぐに捕まるとは思うが、なにせ人の目を欺くのが得意な奴らだからな」
 うん、と適当に相槌を打ちながら、クラウスは考え込む。もう用のない相手だが、余計なことを誰かに言われたら困る。早急に対処が必要だろう。彼の言う通り、すぐに捕まれば問題なし。だが、上手くいかなかった場合は……。
「国境の兵を、すぐに動かせるようにしておこう」
 それがいい。どうせすぐにアリシエウスに向かうし、それに、逃げ込むとしたら、何処へ行くだろうか。
「もしかしたら、面白いことになるかもしれないよ?」

 早足で歩きながら、礼拝堂に戻る。途中、何人か神官たちにあったが、挨拶もそこそこに立ち去った。中には友人もいたが、今はとても楽しく話をする気にはなれない。
 礼拝堂に戻り、祭壇の前に立つと、四神像が目に入った。
 途端、それを壊してしまいたい衝動に駆られた。
 激情を抑えながら、神像を睨みつけてなんとか心を落ち着かせると、ふっと笑う。どうも、この一件で自分はずいぶんと変わってしまったらしい。ずいぶんと乱暴になったものだ。自分の武器が、細剣で良かった。もしも膂力で斬る剣であったら、剣を振り回していただろう。細剣では、とても像は壊せない。壊せたとしても時間がかかる。
 ――逃げてしまおうか。
 一瞬、そんな考えがよぎる。戦場で鉢合わせたグラムたちと戦うなんて嫌だし、なにか録でもないことに関わるなんて冗談じゃない。が、それは無理なのだ。家族がいる。全てを放って逃げ出したら、どうなることか。なにかあったときに罪悪感を感じずにはいられないだろう。嫌で嫌で仕方がないが、そこまですることはできないのだ。リズの言ったことが今ではよくわかる。
 せめて彼らの為になにかできないだろうか。アリシアの剣、あれを諦めさせることはできないだろうか。そもそもなにに使う気なのか。戦争か。セルヴィスの手記もそうなのだろうか。
 ぐるぐるととりとめもない思考が頭の中で回転し続け、終いには目眩を覚えた。旅で疲れているのかもしれない。本当に休んだほうがよさそうだ。よろけそうになる身体をなんとか支えて、神殿の扉を目指す。
 外に出ると、晴天はいつの間にか曇天に変わっていて、今にも雨が降りだしそうだった。その下で、騎士たちがなにか重い物を運び込もうとしている。きっと武器かなにかだろう。人々の信仰を助けるはずの神殿も、戦争で慌ただしくなっている。
 少し旅に出ていただけで、ユーディアの知る世界はすっかり変わってしまった。神は無条件で信じられる存在ではなくなってしまったし、友人はなにかを企んでいる。いつの間にか戦などがはじまっていて、周囲はそれに呑みこまれつつある。
 まるで、この空のように、曇天に変じてしまったかのようである。



64/124

prev index next