第1章 王子脱走


  2.

 アリシエウスは城を中心とした円村集落の形態をとっている。城を囲むように貴族の家が立ち並び、その周囲に一般層の街が置かれている。街は城壁で囲まれており、出入りが可能なのは四方に置かれた門のみ。農地は街の外にあり、ちょっとした農作物を育てている。その先は森。アリシエウスは森の中にある国なのだ。
 ラスティは私服に着替え、念のため帯刀して外に出た。行く先は平民区である。北門へ続く大通りを街の様子を眺めながらゆったりと歩く。それは、失踪した王子を探しているようでもあり、物見遊山に来ているだけのようにも見える。
 だいぶ門よりの位置にある本屋の横の日陰になっている脇道を通り、奥へ奥へと入ってゆく。日中でも薄暗い場所、油断していたら誰かに襲われかねないその場所に、小さな酒場があった。石造りのこの街には珍しい、木材でできた、襤褸小屋のようにも見える1階の建物。いかにも安酒場。
 扉を押して、ためらいもなく中に入った。外と一転して酒気と熱気で溢れ、隣の人間の声が聞こえないほどに騒がしい。あちこちで煙草を吸う客の煙によって、ただでさえ暗い角灯が更に暗くなり、空気が白かった。今は日中であるはずなのだが、ここの客たちの仕事はどうなっているのだろうか。
 ラスティは店の入り口に立ったまま中を見回した。探している者は見つからないようで、何度か視線を行ったり来たりさせていたのだが、親切にもウェイターが彼に声を掛けてきて、居所を掴んだ。
「いよおラスティ、久しぶりー」
 その一席から、青年が大きく手を振っている。その青年の声に続いて、周囲の客たちが次々に肩を叩いたりして親しげに声を掛けた。
「久しぶりだな、アレックス」
 呼びかけると、青年は笑った。油のついた黒髪を項でまとめ、肌の色はここらでは珍しくも褐色。黒っぽい色の瞳は、いかにも楽しそうにらんらんと輝いている。
「お前が来たって事は、あれか。お迎えか」
「まあな」
 2人してある1席を見る。
 そこに座っている人物は、ジョッキを持ったままそっぽを向いていた。
「ディル」
 名前を呼ぶが、振り向かない。
「帰るぞ」
「やだ」
 カクテルを片手に持っている21歳の王子が、子どものように口を尖らせて顔を背けている。
「やだじゃないだろう。だいたい、昼間から酒なんて、どういうつもりだ」
「悪かったな」
 憮然と言ったのはアレックス。
「お前はいい。どうせ、もう仕事は終わっているんだろう」
「まあね」
 やることをしっかり終えて酒を楽しんでいるのであれば、ラスティだって別に文句はない。だが、ディレイスには何かしら仕事が残っているはずだ。そうでなければ、ハイアンが捜しているはずがない。
「いいじゃん、別に」
「よくないだろう。酔ったまま仕事をする気か」
「俺、酒強いし〜」
「…………」
「嘘です嘘です、ごめんなさいっ!」
 身分を忘れ、頭を下げるディレイスの横で、アレックスが腹を抱えて笑った。
「こいつが飲んでるのは、ノンアルコールだよ」
 ならば問題ない。ラスティが頷くと、ディレイスは大げさに安堵のため息を吐いた。こちらも安堵する。彼が酒を飲んでいたなら、ハイアンになにを言われるかわかったものではない。
 さて、時間もないことだし、そろそろ襟首を掴んででも連れて帰らなければならない。
「いい加減にしろ!」
 ラスティたちのいるテーブルの隣の、その向こうで怒鳴りながら男が立ちあがり、向かいの席にいる誰かの胸倉を掴みあげた。
 途端にあたりは静かになり、男たちは注目を集める。ラスティもディレイスを連れ帰ろうと襟首に伸ばした手を止めた。
 怒鳴るほうも、掴みかかられているほうも、その周りでにやにやと笑みを浮かべている2人も、見たことのない顔だった。この店の常連ではない。いや、この国の人間でもないだろう。
「俺がイカサマしているだと? 証拠でもあるってのか!」
 内容で騒ぎの原因を知る。賭博だ。酒場にちょっとした賭けは付き物で、だが、酒が入っているぶん、トラブルも多い。
「証拠証拠、立場が悪くなるとすぐにそう言う。自分たちが潔白だっていうんだったら、まずその服の裏を見せてくださいよ」
 胸倉を掴まれているというのに、特に動じた様子もなく慇懃に言っているのは、まだ少年だった。まだ13か14歳ほどである。
「なんで俺がそんなことをしなくちゃいけないんだよ!」
 周囲に構わず怒鳴る男の頭に血が上っているのは間違いないというのに、
「あれ? できないんですかぁ? だって、してないんでしょう、イカサマ」
 少年は嫌味たらしく、相手を挑発する。ラスティたちをはじめとした、無関係なはずの酒場の常連たちは肝を冷やした。
「すげぇな、あの子」
 呆れたのか、感心したのか、アレックス。こくこくと2人して頷いた。
「でも、そろそろまずいよな」
 これにも頷く。男が手を出すのも時間の問題だ。
 皆がラスティにどうにかするよう、視線で訴えはじめた。ラスティは騎士だ。暴力沙汰があればそれこそ出番だし、国家権力も多少なりと持ち合わせているので、場を収めるのにはもってこい。国家権力といえば、ディレイスがいるが、身分が身分なので問題外。
「ラスティ」
 さて、どう口を挟もうかと考えあぐねていると、ディレイスがラスティの名を呼んだ。
 嫌な予感がした。
 ディレイスはアレックスと目を合わせ、2人してなにを企んでいるのか笑う。
「命令だ。あの可哀相な少年を助けてきなさい」
 どうやって、と尋ねると、口を揃えてこう言った。
「もちろん、賭けで」



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