第10章 誰そ彼


  2.

 〈洞〉を出て木漏れ日を浴びると、リズは伸びをした。そう長くいたわけではないのだが、〈洞〉はどうも窮屈で息が詰まる。あんなところで良く酒が飲めるものだ。それとも、酔えば気にならなくなるのだろうか。リズは酒が入るとすぐに眠くなるので、酔いの気持ち良さをよく知らない。
 ふう、と息を吐く。こんな陰気な区画でも、建物の外というだけで気分が違った。疲労感が残っている。ただでさえ緊張する場所だが、今日は変な奴に絡まれたため、余計に疲れてしまったらしい。もうああいうことはご免被りたいものだ。今日は幸いウィルドが来てくれたので、面倒なことをしないで済んだが。
「全く貴女という人は」
 背後からかかる溜め息交じりの声。
「こんな場所に1人きりで来るなんて、いったいなにを考えているんです。危機感がないにも程がある」
 はじまった。リズはうんざりして振り返った。
「別に知らない街じゃないからいいじゃん。みんな滅多に絡んでこないし、絡まれてもどうにかできる自信があるし」
「魔術を取ったらただの小娘であるくせに、よく言う」
 リズはむっとした。確かにリズは白兵戦が苦手だ。筋力はないし、スタミナも充分と言えるほどはない。しかし、一応魔術を使わない戦闘訓練だって受けているのだ。〈黒枝〉の奴らに比べれば弱いかもしれないが、一般人よりは強いはずだ。魔術なんてなくても、一介のチンピラに負けるつもりなどない。
「とにかく、ここは女性が1人で出歩くような場所ではありません。行くな、とまでは言いませんが、誰か他の人を連れていくくらいのことはしてください」
 まあ、確かにここに来る前に、1人でいくのはどうだろうと悩みはしたが。
「グラムとリグはアーヴェントのところに行ってていないし。まさかジョシュやルーを連れていけと? それこそ一般人だ」
 他に思いつくのも、一般人か女性。腕の立つ知り合いもいるにいるが、こういうところに行くのに付き合ってくれ、と気軽に言えるような間柄ではない。
「……なら、私に声を掛けてください」
 確かに目の前の男は強いし、気軽に頼める間柄ではあるが。
「別にそこまでするほどのことじゃないし」
 彼は別段忙しいわけではないが、そんな些細なことにつき合わせるのは悪い気がするのだ。彼は強く、特別だ。だから、できるだけ煩わせたくはない。結局いつも迷惑を掛けてしまうのだからこそ余計に、こんな小さなことで駆り出したくはないのだ。
 そんなリズの心情を知ってか知らずか、ウィルドは目を見開いて怒鳴った。
「少しは女であることを自覚してください!」
 大声に身を竦めながらも、だんだん腹が立ってきた。女、女となんなんだ。
「なら、次からは髪を縛ろうか」
 嫌味を含ませて、リズは言う。そうすればリグに見えるはずだ。兄と身長差は結構あるが、両親とグラムとウィルド以外には見分けがつかないのだ。幼馴染すら気付かないのだから、時々嫌になる。
 話は終わりだとばかりに踵を返した。腕を掴まれたので振り払うと、今度は肩に手が掛かって、無理やり振り向かされた。
「真面目に聴きなさい」
 その表情や声色から、彼が本気で怒っていることを悟った。正直恐ろしく、少し悪い気がしたが、謝る気にはなれなかったため、恐怖と罪悪感を押し殺して真正面から見返した。
「わかったよ。次から気を付けます」
 投げやりな返事に納得しなかったようだが、それ以上はなにも言わなかった。押し黙った男に背を向け、歩き出す。
 不愉快な会話はそうそうに追い出し、リズは脳内で今買った情報を再生していた。さすがは〈洞〉、望む物は充分にそろっていた。
 だが。
『アリシエウスのお友達に教えて差し上げてはいかがですかな?』
 〈洞〉の老人の声が頭の中で反芻される。振り払いたくても払えないくらい、嫌な後味が残っている。もう一度口にしたら、更に不快だろう。
「……最悪だな」
 思わず独り言ちる。しかし、それでも伝えなければならない。彼に。
 砂埃を被った石畳の道に、空の木箱が転がっていた。道端にゴミなんか捨ててんじゃねーよ、と思いながら爪先で蹴飛ばし、拾わない辺り自分も同罪だと自嘲する。
「随分と気に入っているようですね」
 つい今まで起こっていたとは思えないほどの穏やかな声。その低い声になんとなく安堵して、ささくれた心が少し落ち着くのを感じながら、リズはなんのことかと訊き返した。
「ラスティさんのことです」
 リズは少し呆気にとられた。確かに気にしてはいるが……気に入る?
 だが、よく考えてみると、彼に対して抱くリズの感情は、それが一番当てはまっている気がした。
「ああ、うん。そうだね。なんていうか……ほっとけないんだよねぇ」
 アスティードの所為なのか、お人好しの所為なのか、心配になる。ヘタレだし。だけど、真面目で誠実、面倒見もいい。なにより純粋だ。あそこまで純粋な人間を、リズは久しぶりに見た。明朗快活、良い意味でも子どものようなグラムでさえ、暗い部分を身の内に抱えているというのに。おそらく気に入ったのはその所為。
 しかし、同時に彼は正直者が馬鹿を見る状況に陥りやすくもある。実際、巻き込まれている。放っておいたら、袋小路に追いやられるだけのような気がするのだ。そういうのは嫌だ。
「あいつが望むのは、小さな幸せだ。平穏な時を過ごせればいいだけ。それなのに、あんなものの所為で全て奪われて……」
 正直で誠実であるなら、それに対する報いがあって然るべきだと、リズは思う。だから、気にかける。
 本来なら、見ることもない遺物。関わるなんてありえない。だが、賭け事が得意なラスティは、なんの因果か限りなく0に近い確率の貧乏くじを引き当ててしまった。
 人はそれを運命というだろう。全ては神の思し召し。だが、リズはその“神”が許せない。何故ラスティに白羽の矢を立てたのか。いったいそこに、どんな思惑があるというのか。
 ――下らない理由なら、許さない。
 もっとも、初めからまともな理由なんて期待してないが。
「全て彼の仕業と決まったわけではない」
 リズが腹を立てるその人が許せないという点で同じ気持ちを抱くウィルドは、冷静に客観的に指摘した。リズもそれには異論はない。
「だけど、無関係とは言えないでしょ」
 憎悪、嫌悪を抱くには、それで充分である。
「助けられるなら助けてやりたいけど、こっちはこっちでまたなぁ……」
 残念ながら、こちらはこちらで厄介事があるのだ。
「戦争ですか」
「も、そうだし、手記の件も。他国に渡って手が出せないからって、ほっとくわけにもいかないでしょ」
 どれも、逃げ出せるならとっとと逃げ出したい厄介事だ。それができないのは、組織に身を置いている立場であるから。それに、無視して放っておいたあとの結果を見るのが怖い。
 天を仰いで、嘆息する。街の外なら目に映るのは果てしなく遠い空だが、シャナイゼの中では数十メートル上の木の葉に覆われているのが目に入る。生まれたときから見ているので、頭上が低いのを息苦しいとは思わないが、なんだか落胆した。こういうときは、高い高い青空を見上げたいものである。
「禁術に戦争、神の剣。碌なことがないな、この世界は」
 だが、なにより碌でもないのは、この事態を引き起こす人間だ。



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