第26章 紫紺の狼


  2.

 はじめはスコルの声だと思った。
 これだけ多くの敵がいるのだ。リグはあまり精霊や狼たちを巻き込みたくないと言っていたが、やむにやまれず喚び出してしまうことだってある。
 その声がスコルのものとは違うことに気付いたのは、すぐ後だ。狼の吠え声だからリグの狼だと思ってしまったが、よくよく思い返してみれば声色が違う。腹の底に響く、威勢の良い声だった。スコルのは――なんというか――もっと渋い。
 ようやく目にしたのは、日の光に暗い紫が光る、ハティやスコルと同じ雰囲気を纏う狼だった。
「えっと……」
 予想外の事態に、グラムは声を失った。よく似た魔物でないことは、勘が告げている。双子が喚び出した訳ではあるまい。とすれば――。
 普通の狼と比べて随分と大きいそれが爪を振り上げたのを見て、我に返る。ボケている場合ではない。
 襲われているのは、こちらの兵だ。何人かが爪に巻き込まれている。動きづらそうな鎧のお陰で事なきを得ているが、突然の狼の登場に混乱して士気が下がっている。反対に敵のほうは士気が上がって……。
「って嘘ぉ!?」
 振り払った前足が敵兵にも当たっていた。たまたま巻き込まれたのではなく、目の前にいたから攻撃したという感じ。つまり、あれは敵の戦力ではないのか。
 ――どういうことだ?
 気になることはあるが、とにかくあの狼をどうにかしないと、被害が増えるばかりだ。
 周囲の敵を強引に振り切って狼に接近すると、前に立って大きく剣を振り上げて斬りかかる。当たらなくていい。グラムが危険だと感じてくれればいいのだ。
 狙い通り、狼はグラムを脅威と感じたらしい。暴れるのをやめ、こちらだけを見ている。グラムはその目を見返しながら、手を振って周囲に下がるように指示した。連合軍の者たちは、急いで狼の傍から離れ、狼とグラムの間の距離より少し離れた位置で心配そうに見守っている。クレール軍の者たちも彼らの動きを見て、後退りし始めた。
 ――気は惹いた。このまま……っ。
 紫紺の影が動く。身構えるが、牙が迫るのが思ったよりも早い。グラムは咄嗟に背中から転がるように倒れ込み、同時に足を振り上げて顎を蹴りあげた。
 きゃう、と図体からして可愛らしい声で悲鳴を上げている隙をつき、足の痺れに耐えながら地面を転がって少し離れたところで立ち上がる。そのとき、狼に踊りかかる白い大きな影を目にして、グラム叫んだ。
「スコル!」
 この世の者ではない白い狼。彼は友人の忠実な僕。彼がここにいるのなら。
「リグ!」
 向こうから現れたリグの姿に、歓喜の声が上がる。背中を預けられる仲間。そして、これについての専門家。今この場で最も頼りになる存在が来てくれた。
 リグはグラムの隣に並ぶと、素早く告げた。
「たぶん、キースの仕業だ」
「じゃあ、やっぱり……」
 あれは召喚された幻獣なのだ。
 グラムは振り返った。兵士たちは狼の戦いに圧倒されつつも、どう手を出せば良いのかあぐねているようだ。そんな彼らに、グラム叫んだ。
「全員下がれ! 相手は大きいうえに素早い。躊躇ってる奴は迂闊に近づくな!」
 狼の相手は慣れていないと辛い。特にあれだけ大きな狼を相手にしたことのある者はまずいないだろう。そんな彼らを無闇に前に立たせても仕方がないし、こういうのは人数が多ければいいというものでもない。それよりは、少数で慣れた者が行くべきだ。――つまり、グラムたちである。
 司令官でもないグラムの突然の命令に、兵士たちは戸惑っていたが、死にたいのか馬鹿! と恫喝すると、渋々下がっていく。まだ兵士としての矜持や逃げ出すことで後に与えられる処罰が枷となっているらしい。しかし、突進されたのか、飛ばされたスコルが迫ると、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
 情けないやら、足手纏いがいなくなって良かったのやら。深く考えない事にする。
 それよりも。
「リグ、スコルを!」
「わかってる」
 リグも同じことを思ったようで、スコルの足下に魔法陣が描かれる。地面に踞ていたスコルは、抗議の声を上げながら魔法陣に吸い込まれるように消えていった。
「大きい奴に大きいのをぶつけりゃいいってもんじゃないんだな」
 大きいもの同士が戦うと、それだけ戦いの場の範囲が広くなる。人が密集しているところでは、それだけ巻き込まれる人間が多くなるということか。そこまで考えたことはなかった。なにせいつもは少数で戦っているのだ。
「俺たちでやるしかないか……」
 同じ狼、同じくらいの大きさということで頼りにしていたのだが、敵味方密集しているところではスコルは頼れない。動きが素早くて大きな相手、更に戦う範囲にも気を使わなければならないのだ。苦戦することは間違いない。
 リグがグラムに向けて手を翳した。グラムは自分の身体を見る。魔力による実態のない鎧。物理的衝撃を吸収してくれる守りの術。
「他にご所望は?」
「取り合えずこれでいいや」
 受けるダメージが減るだけで十分。
「いっくぜぇっ!!」
 気合いを入れ直して、グラムは少し身を屈めて走り出した。声を上げながら正面へ。こちらに気付いて振り回された爪を躱し、横に回って斬りつける。その間にリグが背後に回って槍を振るう。しかし、やはり狼。機動力が並みではないので、あちこちに動き回られ追い掛けるだけでも一苦労する。
「くっそ、やっぱキツいな……」
 地面に転がったところを立ち上がり、剣を軽く振りながらグラムは言った。
「あのとき、よく俺ら生きてたな」
 あのとき。リグとリズがハティとスコルを喚び出したとき。今よりもずっと未熟で弱かったのに、生きて帰って契約までしてきた。この狼のことを思えば、あれはいったいどれ程の奇跡だろうか。
 だが、あのときから成長しているのだ。今だってできないはずがない。
 気を取り直して顔を上げ、頭上が陰っていることに気付く。振り下ろされる前足を見たのはそのときだった。
「やば……っ!」
 慌ててその場を飛び退く。グラムはなんとか掠らずに済んだが、布地の多い服を着たリグは裾が爪に引っかかって体勢を崩した。なかなか体勢を立て直せないリグに、更に狼が両前足を振り被る。一瞬ひやりとしたが、リグがいつも掛けている守護の術で悲惨な事態は免れた。
 安堵している余裕もなく、グラムは狼に突っ込む。
 紫紺の狼は予想通りに強敵で、それだけに戦いに終わりが見えないものだから、次第に焦りが生まれてきた。戦争の途中、当然グラムたちもこれまでに体力を消耗してきたので、万全な状態ではない。それなのにこんなのと戦って、どうにかする前に力尽きてしまったら。
 余計な事を考えた所為だろうか。横に振られた大きな前足を見ることはできたのに、身体が反応できなかった。次の瞬間には身体が宙に放られ、肩から地面に着地する。
 リグがグラムの名を叫ぶ。
 身を起こす間も、剣を持ち上げる間もなく牙が迫ってくる。これは左腕は死んだな、と襲いかかる痛みから逃避した瞬間だった。
 がち、と硬い物を噛んだような音がする。
 グラムは驚き目を見開いた。狼が刀身を噛んでいるのだ。当然グラムのものではない。右後ろ脚にいたリグがあの一瞬で正面に回れるはずもない。となれば、入ってきたのは第三者。
 ラスティがそこにいた。



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