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空き地の裏にあるその家は木造の平屋建てで、どこか懐かしい気持ちにさせる日本家屋だった。
家主がヤクザの親分かどうかは未だ定かでないが、もしそうだとしたらその割に少々手狭に見える。
が、敷地を囲む分厚い土塀と薬医門のような入り口は小振りながらなかなか立派な物だ。表札は無い。
恐る恐る門をくぐる。短い石畳を歩くとすぐに玄関だった。引き戸を少しだけ開き、中に声をかける。

「…ご、ごめんくださー」
「やっと来たか!」
「い!?」

途端、向こう側から勢い良く戸が開けられ、思わず悲鳴を上げて固まる。
首をすくめた拍子に落としてしまった視線の先には、下駄履きの足が仁王立ちで待ち構えていた。裾から覗く素足は細く骨張っており、一目で男、老人と分かった。
そっと視線を持ち上げてみる。墨色の作務衣の肩に、白髪がかかっている。背が高く、思っていたよりももう少し高い位置に顔があった。
サングラスをかけているせいで表情はよく窺えないものの、ひしひしとその怒気は伝わってくる。
カッパではなかったが、本当にヤクザだと言われても納得がいくレベルの迫力だ。

「…なんだ、ガキどもじゃあねぇな、誰だアンタ」
「あ、え、えぇと」

しばしの間の後、男はこちらを見下ろし訝しげに言った。第一声に比べ刺々しさを抑えた声音だったが、低く唸るような声は十二分に恐ろしい。

「…っあの、先程ボールを投げ込んだ者です…すみませんでした…!」
「ああ?」

決死の覚悟で頭を下げると、いかにもガラの悪い返事が降ってきて逃げ出したくなる。しかし背を向けた途端に殴りかかられそうな気もして、その場を動く事もできない。

「アンタ、学生か」
「? い、いえ、勤めてます、社会人です」

予想外の質問に顔を上げて答えると、男は計るようにしげしげとこちらを眺めた。まさかどこかに売り飛ばされるのかと思考が飛躍しかけた所で、さらに質問が飛んでくる。

「いい大人の、しかも女が、人様の家の窓を割るってのはどういうことだ」
「う、あの、買物帰りに空き地の前を通ったら、ボールが転がってきて、中学生ぐらいの子達に『すみませーんボールとってくださーい』って言われて、投げ返したら…お宅に…」
「空き地前の道とうちの家は、空き地を挟んで丁度端と端だが」
「…昔っからノーコンなんですがボールを投げるという行為が学生以来ですっかり忘れてました…」
「…ノーコンで豪腕とはタチが悪いな」
「…か、返す言葉もございません…」

次の瞬間には怒鳴られるのでは無いかと言葉を交わすたびにびくついてしまうが、一向に怒鳴られも殴られもせず、質問ばかりの相手の意図を読みかねてしまう。
質問、というかこれは一応怒られているのだろうが、最初に聞いた怒号や少年達の怯え方から考えると随分優しい応対なのでは無いか。
それともやはりこれから何かあるのか。その前に出来るだけの誠意を見せなくてはならない。

「本当に、すみませんでした、弁償します。連絡先を置いていきますから、直したら請求を…」
「…あー、とりあえずこっちだ、片付け手伝え」
「は、はいっ」

再度頭を下げると、男はがしがしと頭を掻いてしばらく黙っていたが、短く嘆息してから歩き出した。玄関のすぐ脇にある木戸を開け、庭に続いているのであろう方へ向かって行く。
後片付けの事はもとよりそのつもりだったので言われた通りついていくと、こちらを向かないままで男が尋ねてきた。

「で、ガキどもはどうした」
「え?あぁ、帰りました、けど…」
「チッ」

あからさまな舌打ちにこちらの肩が跳ねると、その気配を察したように男が振り返った。

「…アンタに怒ってるんじゃあねぇよ。今回はたまたま違ったが、あのガキども今まで何回かアンタみたいにうちの窓を割っててな、一度も謝りに来やしねぇ」
「そ、そうなんですか」
「アンタがボール持って帰ってくるのをその辺で待ってるようなら、一緒に行って今日こそ取っ捕まえてやろうと思ったんだが、また逃げられちまったか…ったく」

即座に逃げて行った少年達の判断は、善悪はともかく正しかったようだ。
今は収まりつつあるようだが、全力で怒れるこの男に彼らが捕まったら、それはそれは恐ろしいお説教(で済むのかは分からないが)が待っているのだろう。

「あそこだ」
「うわ」

嫌な想像を巡らすうちに辿り着いた庭からは、くれ縁のガラス戸が一枚、真ん中から上半分を残して見事に割れ砕けているのが見えた。

「…今更ですけど、怪我とかしませんでしたか?」
「幸い奥にいたんでね」

予想以上の被害に体温が下がるのが分かった。これで相手に怪我なんてさせていたら本当に洒落では済まなかった。

「箒を持ってくる。素手で触るなよ、今更怪我人が出てもつまらねぇからな」
「…はい」

どうやら悪い人では無さそうだ。と、縁側に上がる男を見送りながら思う。
確かに見た目は妙に迫力があるし、ここまでの言動は少々荒っぽかったが、特別乱暴なわけでも話が通じないわけでもない。
少年達への怒りは至極真っ当な物であったし、謝罪後の自分への対応は期待以上に穏やかだ。

「どっちかっていうとむしろ紳士…?」

そっけないながらこちらを気遣う言葉からは、人の良さが窺えた。
男が姿を消した縁側の向こうに見える部屋は、ごく普通の和室だった。部屋の全体が見えるわけでは無いが、八畳程あるようだ。
畳にちゃぶ台、用箪笥の上にラジオ、壁掛けの振り子時計。特別な物は何も見当たらない。あの男以外の人の気配も無い。
振り返って庭に目をやる。松と梅と金木犀の他に、名前の知らない木が数本、そこここに植えられている。
砂利は敷かれておらず黒土がむき出しになっているが、木の足下や植え込みの影など、半分は芝生のような苔に覆われていた。
タンポポやスミレ、ホトケノザが、ぽつりぽつりと咲いている様子は、一見自然に任せているように見えて、
しかし他に雑草は少しも生えていない。木漏れ日に照らされた苔が、抹茶を彷彿とさせる美味しそうな色で光っている。
アパート住まいの自分からすれば贅沢な広さだが、世間一般の規格から逸脱する程でも無い。
そこそこに裕福な、いたって普通の家と庭だ。悪人が住むような場所にはとても見えない。

「ヤクザの親分さんの家って言ったら普通もっとこう大きくて、若い衆とかお手伝いさんとかがいて、庭は枯山水とか鹿威とかで…イメージだけど」
「ヤクザがなんだって?」
「!」

慌てて縁側に視線を戻すと、男が戻ってきて下駄を履き直している所だった。手には箒とちりとりが握られている。

「別にわしァヤクザじゃねぇぞ。…まぁカタギにも見えねぇだろうが」
「い、いや、そんなことは…すいません」
「ふん、怖いんならさっさと終わらせて帰るんだな。ほら、まず家ん中、それから外」
「はい…」

怒らせてしまっただろうか。気まずいまま縁側に荷物を置かせてもらい、差し出された掃除道具を受け取る。靴を脱いで中に上がると、日のあたる床がじわりと暖かかった。





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