ボクッ、と鈍い音が響き大尉以下アメストリス国軍兵士9名は身体を震わせ硬直した。

「………ツ…」

 テントの真ん中、女の錬金術師と対峙した少佐が鼻を覆って身を屈めていた。外は慌ただしい軍靴の音と喧騒に囲まれ、赤土の硬い床は重い砲撃の振動でときおり鈍く揺れているが、この場所だけは凍り付いたように静まり返っている。

「どけよ」
「全くこれだから民間卒は……、軍属の人間なら減俸降格、或いは懲戒ものですよ」
 
 ゾルフの右頬は鼻を中心に、徐々に、痛々しく赤みを帯びた。彼は酷薄な目つきをやめようとせずにむしろニヤリと笑った。
 手の隙間から鼻血が垂れる。ゾルフは親指の腹で鮮血を拭い、部下のほうを見もせずに手を出し――キンブリー隊の男がすかさずハンカチを差し出した――指を拭いた。
 時間差で拳がじんじん痛み出した。ゾルフに手を出したのは8年ぶりのことで……でも、この痛みはこの衝動を納めるには全く足り得ない。胃を沸騰させ身を震わす猛烈な怒りは、頭のてっぺんに尽きぬけ蒸発し一周回って冷たい衝動になって全身を支配している。

「ここから一番近いところにいる准将を縊りに行くから……どけっつってんだよ。後輩の癖に生意気じゃない?」
「お断りします。部下を抑えられないようではわたしの昇進に関わる……今まで上司に下げた頭の数々をあなたにも見せてやりたいですよ」
「へえ!面白そう」
「………」
「いつか見てみた〜い……でも今は邪魔しないで」

 賤しくも一介の錬金術師だ、わたしはあくまで冷静を保てているつもりだった。しかし思春期を共に過ごした経験から、ゾルフはわたし以上に”この女は自分が思っている以上に冷静でない”ということに気づいていたらしい。確かに、思えばこのときの気の高ぶりと頭の冷たさは、例のゾルフが爆破した死体を埋めたときと似ていた。
 ゾルフは鼻の下を抑えるのを諦めたのか、手の甲で血をぬぐい「さっきのは強烈でしたよ……完全に不意を突かれた」と笑う。

「とにかく、上官への直訴は許可できませんね。したとしてもまともに取り合ってもらえないでしょうし……誤って将校クラスを殺しでもしたら大問題だ」
「おまえこそ今問題発言したろ」
「発言には気を付けて頂きたい」
「”キンブリー少佐”、あなたはまさか、”これ”を看過するんですか?」
「はて、”これ”とは?」
「この――唾棄すべき、最低な――……戦争などとは呼べない一方的な虐殺です」

 つい感情的になって声が上擦る。怒りを怒りのまま保持するのは難しい。それがどれだけ無駄なことかあの夜悟ったはずなのに、長年の癖、慣れというものか?怒りの根底にあった哀しみと虚しさ、やるせなさが露呈して、つい本気でゾルフに語り掛けてしまった。
 彼の切れ長の瞳がにわかに赤く色づいた。わたしを取り押さえようとキンブリー隊の部下がじりじりと近づいてくる。

「己の役割を全うしてください、レイリー特別補佐官。あなたは国家錬金術師として軍の命令に従わねばならないのですよ」

――嬉々としてそれの中に飛び込んだ人間の口でそれを言うか。



 上官に媚び諂うゾルフを見るのは端的に言って面白い。彼が、「大佐にお褒め頂けるとは光栄の至りです」とゴマをすり牧師も真っ青のにこやかな笑みを浮かべ敬礼するさまは、例えば熟れたメロンにしょっぱいプロシュートを載せて食べるような気色悪さがある。だが今のわたしにそれを堪能する余裕はなかった。

「ヨダ地区、八割陥落しました!残るは南部の寺院周辺に立てこもっている武僧一団のみです」
「ヨォシ」

 錬金術師を擁する部隊は、イシュヴァール三十六地区を一つ一つ縫うように地区の主要道路を進みながら全域に進軍していた。現在のイシュヴァール地区は軍の主要部隊が一歩先に進軍して前線を推し進めており、その後方から状況が拮抗した場所にだけ優先して錬金術師部隊が振り分けられている。

「キンブリー少佐、任せていいかね」
「喜んで。地獄の業火をご覧に入れましょう!」
「ふはははは!頼もしいな君は」

 褐色肌の大佐はゾルフの背中をバンバンと叩いた。
 あの大佐が後で死なないか不安だがそんなのはもう些末なことだ。ゾルフの爆破好きが高じた横暴だけでなくこの戦場――否、虐殺劇場自体がどこもかしこも異常に満ちており、敵味方がいつ何人死のうが誰も疑問に思わなくなっていた。この殲滅戦の全容を身をもって知った当初、初めての戦線投入がこのざまだったこともあり酷く憤慨し、正当性に疑問を呈し、上官に直訴するといってゾルフを殴り倒したわたしも前線投入後一週間で涙も枯れ果てる始末である。
 戦争をしにきたはずだった。しかしここにあったのは一方的な虐殺で、わたしがゾルフと交わした会話など何の意味もないくらいの、明らかになにかがおかしいと皆分かっているはずなのに何故か止められない、二度と這い上がれなくなるような死の汚泥に足を取られるような、そういう地獄だった。

「では寺院周辺の兵士を全員下がらせてください。負傷兵はレイリー補佐が診ます、その間にわたしが立てこもり地域を片付けます」
「はっ!」

 わたしの錬金術と医療の最も違うところは、治療に時間がかからないことと治療に必要な材料を現地調達できるところにある。今ヨダ地区南部から引き揚げてくる兵士らの健康な肉を削り(大抵が尻や太ももだ)、傷口の上に起き、一か所の錬成陣の中にまとめて放り込むと彼らそれぞれから削り取った肉がちぎれた筋肉を修復し血管を繋げ腕と足の間を接着する。血が足りないときはわたしや衛生兵が持参した輸血パックを使う。
 地面に錬成陣を書き、キンブリー隊と交代する形で下がってきた連隊の負傷者をまとめてそこに立たせる。ただ、後退してきたばかりで気が立っているのか、わたしを新米国家錬金術師として下に見ているのかあまり従ってくれないこともあった。

「怪我している人間は全員円の中に!
「何故死体がここに?」

 わたしの治療には死体を使う。それが受け入れられない可能性があるという指摘は、戦時特別徴用が決まった時にゾルフからされていたのでわたしは敢えて説明していなかった。

「気にしないで。それより、一刻を争う重傷者がいるでしょう、早くしてください!」
「レイリー補佐官の指示に従ってください!」
「ですがジョシュア少尉!」

 ジョシュア少尉はキンブリー隊で副隊長のような役目を担っている女性で、隊の中では二人しかいない女性ということもあってなにかと親しくしていた。

「レイリー補佐官はれっきとした錬金術師です。彼女を信用してください」
「まさか死体を使ってこいつの傷を治すんですか?」
「おい、どんな方法でだって構うもんか!このままじゃ死んじまう」
「そうです。人間を構成する元素は誰でも一緒です、イシュヴァール人でもアメストリス人でも」
「なんだと?!」

 やはり気が立っているのか、錯乱している兵士も見受けられる。衛生兵が適宜鎮静剤を打ち大人しくさせるのを見ながら彼らが落ち着くのを少し待った。

「ありがとうございます、ジョシュア少尉」
「いえ、お構いなく」

 ジョシュア少尉は唇の端を釣り上げてにこっと笑った。彼女は栗色の髪を短く刈り上げている細身の女性だったので、巷で女性に流行りのチョーカーをドッグタグと一緒につけているのを見るまでは少年かと勘違いしていた。日に焼けた頬にそばかすが散っているのを気にしているらしいのだが、わたしはむしろそのそばかすが可愛いと思っている。
 キンブリー隊が割り振られた連隊ではたまに、ゾルフの八つ当たり(本人は筋の通った行為だと思っているらしい)を受けて死んだり怪我をする兵士がいた。彼女は早くからゾルフの自己流美学に気づいていたのか、やばそうなときに退避するだけの要領の良さを持っていた。或いはゾルフが、彼女を自分の弾除けにするには少し優秀過ぎると思ったのかもしれない。とにかくこの戦争中にジョシュアがゾルフの弾除けにされることはなかったので、そこは本当に良かったと思っている。
 呻き、苦しむ兵士たちと幾つかの死体を大きな錬成陣の中に入れると両掌を開いて構える。左右の掌に対になる錬成陣が二つ。師匠がそうであるように、わたしとゾルフも同じく掌に錬成陣を刻んでる。我が両掌には、DNAの二重螺旋がメビウスの輪のように繋がれている。

――ふと、円の中の兵士が青い瞳をこちらに向けた。
 怯えた目。目。青い目。
 彼らはわたしの掌を凝視している。

 ここに来てしばらく、彼らが治療前に向けてくる過剰に怯えた眼差しを不可解に思っていた。錬金術という未知の力に対する反射的な畏れか、イシュヴァール人の死体、同胞の死体を使って治されることの恐怖か、または、国家の犬として人間兵器に準ずる者への侮蔑の念か?

……そうか。そういうことか。
 わたしと彼は構えが似ている。
 師匠を見て育った堂々とした立ち方も、両掌に刻んだ術式も。ひとたび掌を合わせた後に何が起こるのか、陣の効果範囲内に居た人間がどうやって吹き飛び血肉をまき散らすのかを、この師団の連中は皆知っているのだ。

「ここには余裕がない」

 わたしは死体と共に錬成陣に放り込まれる兵士に向けて口を開いた。
 頭が半分削れて担架がぐっしょりと血で染まった兵士。
 右足を吹き飛ばされて膝から下がない兵士。
 腹に手りゅう弾の欠片をくらって意識なく横たわる兵士。

「わたしの錬金術では例えるなら移植手術で拒絶反応をほぼ全く起こさないような治療が可能です。でも、完全に死んだ人間を生き返らせることはできない」
「この戦場において死体を選別している余裕はない。イシュヴァール人でもアメストリス人でもドラクマ人でも、使えるものはすべて使って今生きてる人を治す!」
「わかったら、死ぬか生きるか決めて、死にたい奴は円から出て」

 パン!と両手を合わせて地面に着けた。錬成反応の青白い光が立ち登り、掌の皮膚からダイレクトに脳に、そしてまた手に電気のような突き抜ける雷が走った。脳細胞が焼き切れるような集中、兵士一人一人の傷口を意識が駆け抜け、ちぎれた血管を繋ぎ肉を増幅させて身体を繋いでいく。
 嗚呼、治療した彼らがまた新たなイシュヴァール人を殺し、イシュヴァール人に殺されて戻ってくる。
 今助けた命が、次は別の兵士を治すための肉になるのだろう。ここにきて、もうそんなことを一ヵ月続けている。



『塑性』の錬金術師。
 これがわたしが国家錬金術師になるにあたって大総統から授かった二つ名だった。実技試験ではAの肉を使ったBの傷の治療をパフォーマンスとしたので、『培養』とか『増幅』とか『代替』とかを予想していたのだが……読み上げられたのがこんな大層な二つ名で心底驚いた。
 可塑性、つまり、”元に戻る”錬金術。

 錬金術の基本は理解・分解・再構築だが、錬金術を使わなくともそれと同じことは部分的に可能である。例えば水を電気分解で水素と酸素にしたければ、電源を用意して水に流せばよい。それを錬成陣と術師の腕前で行えば錬金術となり、ちゃんと器具を用意すれば普通の実験になる。勿論、水素と酸素をもう一度水に戻すことも可能だ。
 しかしこと細胞においては難易度が異なる。細胞は時間的生き物で、一度ある一定の性能を持って分化したら未分化だった状態には戻れない。一つの胚から、心臓になる細胞、眼になる細胞、皮膚になる細胞がそれぞれ目的をもって分化しはじめたら、もう一度元の何の指向も持たない状態には戻れないのだ。
 しかし、わたしの錬金術では部分的にそれを叶えた。といっても眼を脳みそにしたり、肝臓を皮膚にしたりできるわけじゃない。Aの持つ皮膚をBに移植する際、Aの分化した細胞を一度未分化の状態に戻してBに適応する皮膚に再構築することができる。つまり、本来塑性を持たない生きた細胞に、『可塑性』を与えることに成功したのだ。Bの遺伝子配列を複製する錬成陣と、Aの遺伝子配列を変形させる錬成陣、それら両方に細胞を未分化の状態に戻す錬成陣を組み込んだことで実現したものだった。
 わたしの錬金術は、医療要員として即戦力にもなり、かつ今後の錬金術界で幅広く応用が期待できるということで高く評価されたらしい。そして、誰が吹き込んだかゾルフ・キンブリーの旧知ということで、直属の部下としてキンブリー隊に配属されることとなった。

 錬金術師が一つの隊に二人、それも後方支援部隊として衛生兵とまとめられるのではなく完全な一部隊に付帯する形で配属されるのはまれなことだ。配属命令を出した中佐の話によると、このイシュヴァール殲滅戦では色々と実験的な運用も試したいから、という理由らしいが、むしろイシュヴァール殲滅戦そのものが何かの実験を兼ねているような気がしてならなかった。こんな理不尽に正当な理由があるはずかない。少なくとも、シラフの頭で、何十人もの有能なお偉いさんが真面目に会議して出た結果なわけがないのだ。逆にもしそうならこの国は終わりだ。終わっていいわこんな国、誰か侵略してくれねえかな。

 この世界は大きな流れに沿って動いている。
 それは全て、世界、しいては宇宙全体の必然に則っているはずで、例えば人格破綻者の少年が酒に酔った無礼な男を爆破させるくらいの理不尽なら確率的に起こりうるといえど、これだけ大規模な理不尽はそうそう”必然”で起こるものではない。
 つまり、誰かがどこかでこれを望んでいる……誰かが、この抗いがたい流れをつくっているはずなのだ。
 でも、一体誰が、どうして?こんな悲しい許されないことを、どんな願いがあって、何と引き換えに望むというのか?

「お、お疲れ様です!」
「キンブリー少佐、今回も素晴らしい出来栄えで……」

 帰ってきたようだ。
 錬成後の兵士の傷口と、死体の肉と内臓を使って身体を修復した兵士の容態を見ていたわたしの背後から見知った気配が近づいてきた。

「出陣ご苦労様です」

 沢山殺せてよかったね。という気持ちを込めて淡々と、顔も上げずに挨拶を申し上げたが彼の声色は清々しく、「上々です」と響いた。

「レイリー補佐、あなたも休んでいいですよ。さっきのでこの地区の戦闘はひと段落しました」
「……ここが終わったら休みますのでお構いなく」

 隣に立ったゾルフの身体から、強烈な硝煙と肉の焦げた匂いがする。思わず息を止めて、ゆっくりと吐き出した。俯きながら兵士の患部に包帯を巻いた。
「もし、嘔吐感、呼吸困難、発熱など異変を感じたら一度だけこれを打ってください」と話しかけ鎮静剤を渡す。鎮静剤の数ももう少ない。どこかで衛生班と合流し、貰ってこないといけない。

「あれだけの負傷者をこの短時間で回復させるとは。やはり、野良にしておくには勿体ない腕前でしたね」

 わたしは腰を上げて、なおもゾルフの方を見ないようにしてテントに向けて歩き出した。
 直訴を止められた怒りで反射的に殴ってから、敢えて距離感を保ち軍のルールに則った呼び方を徹底している。しかし、ゾルフはわたしの気持ちを知ってか知らずか、無神経に近寄ってきては話しかけてくる。

「お言葉に甘えてテントで休みます。じゃ」
「どうしました?」
「……疲れてるだけだよ」

 観念して横を歩くゾルフの顔を見上げた。
 イシュヴァールでのゾルフは、特に錬金術師として爆発と虐殺の限りを尽くすときいつも軍服の上着を脱いでいる。間近で高熱の爆風を浴びるからだろう、白いシャツから覗く腕は少し日に焼けていた。

「あんたさ……木っ端みじんに爆発させるのやめてくんない?わたしの治療に使える材が減るから」
「ハッハハハハ!それは失礼」

 苦し紛れに憎まれ口を叩いたが、気分は優れない。脳裏に、掌に、視界に、死体の肉と骨と油がめまぐるしい万華鏡のようにチカチカしている。それら全部を反射的に錬成用の材料として認識している。
 気持ちが悪い。帰りたい。

「ユレー」

 耳元に声が近づいた。
――"ユレー"
 あの夜の光景が駆け抜ける。暗い路地裏に細長く差し込む灯り、潰れた赤黒い泥、機嫌のよさそうな横顔。

「あなたに見せたいものがある」

 耳介を舐めるような低い声で囁くと、わたしの背中をポン、と叩いて別のテントに離れていった。

恒常的いとなみ

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