小雨が降ってきたので軒先に駆けた。セントラル郊外にある安いアパートまではまだ徒歩15分はあるが、傘を買うお金が惜しい。わたしはくたびれたシャツを叩いて、雨粒がまだ雨粒のまま布の上をころころしているうちに水気を落とそうとした。着古した生地は毛がくったりしていて、片っ端から水滴を吸い込んでいく。
赤と白の縞々模様の軒先には『マリーズ・ベーカリー』の文字がプリントされていて、水色の看板には閉店中の掛札がかかっている。鈍色の空。規格化された道路の両脇に鈍色の建物が延々と続く道。黒くてツヤツヤした車が雨粒をはじいて通り過ぎる。多くも少なくもない人が歩いている。
帰らないといけない。
この雨の中に駆けだす気合いを溜めたとき、「失礼、そこの方」と声がかかった。振り向くと、普段はあまり縁のない紺碧の軍服を着た男がいた。顔を見上げると長い黒髪を後ろで束ねているのが見える。
「ユレー……いえ、ミス・レイリー。驚いた、いつセントラルに来ていたんです?」
知らない人だと思い眉を寄せた。だがすぐに懐かしい思い出が蘇る。粗雑に見えてお行儀のいい顔、きれいな鼻梁と切れ長の目。シニカルに笑う口元。
師匠と一緒に見送った背中でも、こうして黒髪が細く風にたなびいていた。
「え、まさかゾルフ?」
「お久しぶりです。その名前でわたしを呼ぶのも、今じゃあなたぐらいですよ」
「……背が、伸びたね」
つい手が伸びたがそれはどこにもたどり着けずに宙を泳いだ。昔みたいに、髪を結ったりフォークを投げられたりする歳じゃない。ゾルフはびっくりするほど整った笑顔でにっこり笑って傘を差しだした。
わたしは国家錬金術師の資格を取らずに故郷に帰り、近くの自動車整備店で勤務しながら近くの診療所で働き始めた。給料のことを考えたら少し遠い町にある研究所で働きたかったが、その頃祖母が身体を悪くしており通勤に時間がかかりすぎた。診療所と整備店の勤務でも十分三人分を養うだけは稼げたので、母に、今の仕事をやめたらどうかと勧めた。
母は仕事を辞めた。時期に祖母が死に、介護の必要がなくなったのでわたしはより医学方面に特化した錬金術を研究しはじめた。国家資格こそ持っていなかったが、錬金術学会にも一度出席してそれなりの評価を頂けて、北東部錬金術師のセミナーにも何度か顔を出していたので少しずつ名前が知られていった。もう少し結果が出せたら整備士をやめて、本格的に錬金術師として商売を始めようかと考え始めていたころ、母が再婚した。
再婚相手は地元の郵便局に勤めていた男だった。誠実そうなひとで、「ユレーさんですよね。立派な娘さんだって聞いてますよ」と握手を求められた。
ごめんねユレー、あなたが一生懸命わたしのために、頑張ってくれてたのは知ってるのよ。
母はなぜか謝って、少し泣いて、嬉しそうに笑って男の腕にそっと手を当てた。どうして謝るの?なぜ泣くの?嬉しいよ。わたし、お母さんが幸せになってくれて嬉しい。
わたしは母を新しい父に任せ、より錬金術の研究が便利なセントラルに活動拠点を移すべく地元を離れた。
「ではお母さまはご健勝なんですね」
「おかげさまで。この前も二人で旅行行ったとかで絵葉書送られてきたくらいだよ」
「それはよかった」
コーヒーカップをソーサーに置く。久しぶりに会った弟弟子は見違えて大人になっていて、思わずわが身を振り返った。今着ているシャツはかなりくたびれているし、靴も四年くらい履いて擦り切れていて……軍人は給料がいい、特にセントラル勤務となれば。
「あん……あなたは雰囲気変わったね。士官学校で揉まれた?」
わたしが言いたいのは、ただ少年が青年になったという話じゃない。ガソリンが充満した部屋で散る火花のように危うかったあの子が、自分を完全に取り繕って軍人然としているのが不思議だった。鍛え抜かれた身体と軍人社会で扱かれた壮健な振る舞いが、よそよそしい敬語と胡散臭い笑みと相まって物凄く奇妙だ。
ゾルフは肩をすくめる。「まあ、あれから6……7年経っていますからね」
カップに口をつける。
「士官学校では随分ひどい目に遭いましたよ。特にわたしのような後ろ盾のない人間は」
「でも元気そうでなによりじゃない。人間社会での適切な振る舞い方も身に着けたようで」
「皮肉ですか?」
口元を紙ナプキンで拭こうとして視線を彷徨わせると、す、と目の前に置かれた。「……ありがとう」隣のテーブルから取ってくれたらしい。紳士ぶってて面白かったのでふふ、と笑ったが、ゾルフは胸中の読めない微笑を浮かべて顎をさげた。
ゾルフの制服には階級章がついていたがどの地位を表すものかわからなかった。元彼に、士官学校は二年だと聞いたことがあるので最短で卒業して二十歳、それから5年でどこまで昇進できるものなのか。錬金術師としてのたがいの近況を話しながらぼんやりそんなことを思った。
「ところで、最近軍が国家錬金術師を広く集めているのを知っていますか」
「さあ」
「通常、セントラルのみで年一の試験が今は主要都市五か所で三カ月に一度行われているんですよ。この機にどうですか?あなたも」
よどみなく流れていた香ばしい豆の匂いが、ふと鼻梁で止まる。
「わたしは別に、」
「殆どの野良錬金術師が資金繰りに苦労しているのは知っていますよ。あなたも例外ではなさそうですが……」
気のせいなのかもしれないし実際そうかもしれないが、言葉尻に嘲笑を感じて思わず視線を左下に落とした。『目線が右下にそれるのは不安に思っていたり嘘をついている証拠らしい』昔、ゾルフと口論になったとき言われた言葉が脳裏をよぎる。
「今は身軽だから、そんなにお金はいらないの。お母さんに仕送りする必要ももうなくなったし」
「…………」
「ま、心配してくれてありがとう。でもわたしが国家資格は取らないって話したの覚えてるでしょ?なんでいきなりそんなこと」
「いえ、ただ軍人として一応の体裁を取っておこうと思いましてね」
「なに、国家錬金術師増やせって言われてるとか?」
「そうですよ」
冗談のつもりだったがゾルフは真正直な顔をして懐から紙をだした。四つ折りの白い紙を開いてテーブルに置く。
「これと同じ紙が、アメストリス国中の錬金術師に順次届きます。内容は、国家資格を取らない場合の錬金術学会費、論文雑誌への論文掲載費用など研究に必要な諸経費が上がるという通達です。国立の研究所で働いている民間錬金術師は解雇され、アカデミックポストに就いている者はポストをはく奪されます。任期付き研究員も同じく任期満了前に追い出されるでしょう」
なんだこれ。
ぎょっとしてコーヒーを押しのけ、ゾルフから紙をもぎとり食い入るように読んだ。確かにそう書いてあるし、大総統の印も押されている完全な公的文書だ。信じられない。国家権力の濫用だ。
まるでこの通達では、国内で錬金術を研究したかったら必ず戦争に行けと言っているようなものだ。建前としては、一部国が出資している学会や施設を使用しているため錬金術師は己の研究を国に還元すべし、となっているが、内実はただの民間錬金術師への締め付けだ。学会費や論文の投稿の費用を上げたからって国が推進している研究費用を潤すには全く足りないので民間錬金術師への圧力としてしか機能しないことは明白だし、今すぐ国家資格を取らないと解雇だのポスト追い出しだのというのは明らかな不当解雇にあたる。
「憤慨する気持ちもわかりますよ。ですがこれは正式な命令書ですからね、あなたがた野良の生活は今まで以上に苦しくなる」
「国は何をしようとしてるの?」
「さあ〜どうでしょうね、わたしの口からは何も」
ゾルフは紙を懐に戻した。
それを持ち歩いているということは、軍人がいちいちセントラル市内の錬金術師の家を回っているのか?国は何をしようとしているのか、とゾルフに聞いたものの今錬金術師として活動している人間なら見当はついた。わたしも含め、我々の界隈でまことしやかに囁かれている噂――”イシュヴァール自治区の紛争が拡大している、このままでは戦争に突入する”。ここにきて錬金術師の大量登用ときたら、考えうるのは今から起こるであろう戦争と錬金術師の徴用だ。
わたしはまたカップに口を付けた。
アイロンがぴしっとかかった白いシャツが紺碧の軍服の袖口から見える。あのゾルフが、郷に入っては郷に従えとばかりにちゃんと軍の規則に従い生活している、ということがやっぱり少しおかしい。それもこれも全て戦地に行くためだというのだから……。
「考えてみるよ」
「深く考える必要はないと思いますが」
「深く考える余地はないってか?」
「……正直に言って、何が気にかかってるんです?国家錬金術師になれば金で困ることはなくなる。勿論成果を出さなければ剥奪されますが、研究も進むし生活も潤うはずだ」
「戦争に徴用される」
「勿論、我々軍人も戦地に赴くとなれば恐ろしいですよ。ただあなたの場合はそれだけとは思えない。ストークス師匠の”願い”を裏切ることになるから、でしょう?」
是とも否とも言えなかった。彼が半分ほど飲んだコーヒーカップから顔を上げることができない。あの日地中に埋めた男の死体を思い出してわたしは口をつぐむ。反対に、ゾルフは滑らかに言葉をつづる――なぜそんな風にペラペラ話せる?わたしたち、無実の人を勝手気ままに殺したのに。
師匠は、わたしが決めたことなら何も言わないだろう。そもそも押し付けられたわけじゃなく、勝手にわたしが国家錬金術師の道をやめたのだ。じゃあ戦争に行くことになったら師匠はどう思うだろう?この突然の紙きれが例の噂を裏付けていることは最早明白、となれば今国家資格を取ったらわたしの錬金術で戦争に加担することになる。
「あなたの図々しさには昔から感服しますよ」
彼は静かに言った。
「”あんなことをしておいて”、今更戦地に赴くのが怖いとは」
「あれと戦争は全然違うわ」
「勿論ですよ。むしろ”それこそ”わたしが言いたい……ユレー、あなたは軍人をただの殺人者と一緒にしてませんか?軍人は、所詮ただの職業だ。シビリアンコントロールのもとにその責任は末端の兵士にはない。あなたが戦争で何万人殺そうとあなたの責任にはならないんですよ」
心の中で無視して覆っていたものが剥がされていく。ゾルフの取り繕った笑顔も剥がれていく。
分かっていた。過去の己が詭弁を並べていたこと。この男が、わたしを恨めしく思っていること。
「それは正論だけど、殺人者たるために軍に入った人にだけは”それ”を言われたくないね」
「それは失礼」
ゾルフはにやりと笑ってまたコーヒーを一口飲んだ。
「本当に、あなたってよくわからない」
「奇遇ですね、わたしもです。あのとき、何故わたしの殺人を見逃したのですか?弟弟子だからとはいえ、師匠の教えを守ろうとするあなたなら警官とはいわずとも師匠に報告するはずだ。でもしなかった」
「師匠は確かにあれを許さない」
「…………」
「でも……あなたのことが心配だった。昔から、どこか危なっかしくて、守ってあげなくちゃいけないと思ってた。あなたは両親がいなかったから、子どもの頃の私はきっと少し同情してて……同じ寂しさを分け合う友のように感じていたんだと思う」
「”わたしが”心配?」
ゾルフが声を強調した。
「そうだよ」
そうだよ。そうだよ。だって、誰だってそうでなる。両親がおらず、命のやり取りに生を感じるような子が弟弟子だったら……その人生に幸あれと願わずにいられるだろうか?
コーヒーカップから視線を上げる。ゾルフは口元は笑っているが目頭にしわを寄せてこちらを睨んでいる。押し殺していた感情を表に出したような、不愉快が瞳に出たようなそんな顔だ。
「だから……埋めたの」
手が冷たくなっていく。自分は殺人に手を貸したのだという自責の念が、忘れようと押し殺してきた罪悪感が蓋を開けて襲い掛かりわたしは唾をのんだ。不安が蝕む。今更になって、今更になって不安が。
長い沈黙が訪れた。テーブルの上に無造作に投げ出されたゾルフの手の、人差し指が、ときおり怒りをこらえる様にピクリと動いた。彼はなぜわたしに声をかけたんだろう。腹立たしいと言っていたのも、あの殺人を彼が何とも思っていないということも、例えば今更わたしにあれの口留めをしにきたわけではないということも間違いないのに。
”あんなことをしておいて今更戦地に赴くことが怖いとは”
その通りだ。そもそも、あの殺人を見逃した時点でわたしはとっくに師匠の教えを裏切っている。『錬金術は命を弄ぶことではない』――だいたい、国の為に戦争に行き同じ職業軍人と戦うことの一体何が命を弄んでいるというのか。本当にそれが理由なら、わたしは軍人を馬鹿にし過ぎている。
わかっていた、本当は戦争に行くのが嫌なわけじゃないってことを。
わたしは戦争に加担するのが嫌なわけじゃなくて、師匠にいい弟子だと思われたかっただけだ。師匠の愛がほしい、母の愛がほしい、己の行動に対してきっと見返りがあるはずだと思っていた。しかし、母の愛は独占できなかった。
しばらく二人とも喋らなかった。ゾルフのつり上がった眉は知らぬ間に穏やかな稜線を描いてお行儀よくするっとしていた。
「ともかく……あなたの錬金術はただでさえ国の為になる。今より資金が増えれば研究も進み、今後もっと多くの人を救えますよ。是非ご検討を」
「わたしの研究を知ってるのね。効率の良い爆弾の作り方ばっか考えてるもんだとおもってたよ」
「ちゃんと主要論文はチェックしてますよ。正直興味はあまりないですが」
興味はない、という表情が本当に興味がないのだろうとわかるそれだったので少し笑った。
外はまだ小雨が降っている。ゾルフは手首をかえして腕時計を確認すると「貧困錬金術師の姉弟子のためにここは奢ります」といって会計をすませた。その通りだったから甘えたけどむかついた。
「家まで送りましょうか」
「結構です」
それではとゾルフは傘を差し出したが、それも断った。濡れて帰っても錬金術があればすぐに乾くし、昔ならきっとゾルフもそう言っただろう。