高笑いが響いた。人生において他人の”高笑い”を本当に聞くことがあるとは思わなかった、と間の抜けたことをぼんやり思いながら、わたしは右わき腹を抑えて膝から地面に頽(くずお)れた。
 グレーの囚人服からみるみるうちに赤い血が染みて滴り落ちる。ゾルフの錬金術は様々な副次的効果によって特に対人攻撃に効力を有する……イシュヴァール戦で聞いた口上を思い出しながら樹木に背中をもたれる。爆発は、人に直接あてる必要がない。クリティカルヒットさせれば勿論脅威だが、建物が爆発する、車が爆発するだけで近くにいる人間を負傷させることができ、樹木の幹が破裂した破片が爆風で吹き飛び脇腹に突き刺さるだけでこうして人の足を止めることができる。
 喉の奥からこみあげてくる鉄の味を飲み込む。わたしはグレーの服をめくりあげ、突き刺さった枝を傷口から引き抜いて、傷を中心に錬成陣を刻むと脇腹に両手を押し当てて目を閉じ――頭で錬成陣を思い描き――傷を塞いだ。彼は風下からやってくる。セントラル郊外のこの林は西部の山脈から流れる風が降りてくるので、”下”から追跡するのに向いている立地である。わたしは幹に背中をもたれて息を整えた。逃げなければ――否、違う。
 わたしはどこにも逃げる必要がない。

「あなたは優秀な錬金術師でしたが、獲物を追い込むことにかけてはわたしに分がある」

 心底愉快でたまらないといった風の男の声が風下から聞こえる。彼は、”自分が追われる側”であることを分かっているからこそ、必要以上に踏み込まずに待ちに徹する構えだろう。やりにくい。いや、やってやる。姉弟子舐めるな。
 鈍色の曇天を見上げるとちょうど頬にぴちっと冷たい点が当たった。雨が降ってきたらしい。これは好都合だ、と思いながら腰を上げて幹から背後を素早く見渡し、動くものがないことを確認すると地面に耳をつけた。まず彼の居場所を見つけなければならない。

”あのとき何故、わたしの殺人を見逃したのですか?”

 数年ぶりにゾルフと再会した日、カフェで聞かれた言葉はわたしの心を深く抉り動揺させた。それはね、ゾルフ、あなたを愛していたからだよ。やっとできた親しい人を失いたくなかったの。あのときのわたしはまだ子どもで、わたしと関係した人、それも年が近くてずっと一緒に過ごしていて互いを良く知っている人が刑務所に入ってしまうのが嫌だった。あなたとわたしの間にある関係が、家族か友人か名前はわからないけれど、その関係が、壊れてしまうのが怖かった。
 あなたがわたしとは一線を越えた場所にいる人間であるということを認めるのが怖かった。だからなかったことにしたかったの。

”あなたのことが心配だった。”
”あなたは両親がいなかったから、子どもの頃のわたしはきっと少し同情してて……同じ寂しさを分け合う友のように感じていたんだと思う”

 わたしはこう答えるしかなかった。これでも十分、わたしの気持ちは伝わったと思ったし、逆にこれ以上伝わってほしくもなかった。
 心の奥底に積もっていた柔らかい雪が舞いあげられたような心地だった。今まで誰にも見せずにいた秘密の場所を暴かれたような、それをめちゃくちゃに踏みつけられたような。あんな風に言いたくなかった。彼に、わたしの気持ちを伝えたくはなかった。彼は馬鹿にするだろうと思っていたし、彼の方はわたしを家族だなんて思っていないと思っていたから、互いに師匠の元を離れてからは連絡も取っていなかったのに。
 こうなってしまった今も、わたしにとっての彼は弟だ。ゾルフ・キンブリーという子は今も、生意気で孤独で愛に飢えた、わたしと同じ寂しい子どもだ。わたしの心の中ではそれだけだった。だが、もうそれがわたしの心の中での彼でしかないことにわたしは気づいていた。わたしはわたしの望む形を彼に押し付けるのをやめないといけない。彼がわたしに妙なことを沢山する理由を考えるのはやめて、ただ、今のゾルフ・キンブリーと向き合わなければならない。
 あの日ゾルフが男を殺したという事実を否定せず認めることで、ゾルフはやっとわたしが望む姿から解放されるのかもしれないと思った。勿論、そんなことを言ったら彼は、思い上がりだと笑うだろうけど。



 脱獄して彼を殺そう、という気持ちが確かなものとして固まったのは、入所して一年と半年経った頃だった。「キンブリー中佐から面会希望だ」と何度目かの言葉を看守から聞いたとき、決行の日を決めた。まずゾルフを殺し、その足で母に会いに行ってそのあと出頭する。ゾルフを殺せばわたしは今度こそ正しく裁かれることができて、そうなったらやっと自分は真の安寧を得られる気がした。
 つまり、罪の意識と感情の問題だ。わたしの今の罪状は〈将校を含む五名のアメストリス軍人の殺害と一名の殺害未遂〉だが、本来の罪状は〈北部工業都市における一般男性の死体遺棄〉であり、それは両方とも真実を告白できない立場にいる。前者の告白は現状ゾルフによってもみ消されているし、後者については個人的な気持ちが先行して告白したくない。だが、ここで派手に脱獄したのちにゾルフを殺せば、わたしの殺人はなかったことにならないし、殺したいと思って殺すことができる。あまりに身勝手で醜い、でもこれ以上ないほど純粋な欲求。
 ただ問題なのは、彼を殺した後の自分の精神状態が全く想像できないことにある。わたしは本当にゾルフを殺せるのか……実力としても精神的にも……?そこはやってみなければわからない。誰だってそうだろう、と影の落ちる独房でぼやいた。

 その予感は的中した。

「………どうしたんです?今日はまた一段と静かだ」
「うん。ちょっと」

 その日、面会に来たゾルフに会うとき、口の中に賢者の石を含んだ。テーブルの上で無造作に組んだ彼の手に、わたしは自分の拘束された手を伸ばした。
 ”自分”に向けて開かれた手のひらを見て、彼はその異変に気付いただろうか。わたしが、師匠のもとを卒業してから十年間ずっと使い続けていた錬成陣が一部書き換えられていることに………それともわたしが手に触れてきたことに驚いたのか、ゾルフが僅かに見開いた瞳と、すっと、わずかに吐息を吸ったあの逡巡――躊躇い。わたしは彼の一瞬の動揺をそのままにゾルフの左手をとってわたしの左手の掌に合わせた。
 そこで錬金術は発動した。わたしの錬金術を封じていた手枷は吹き飛び、同時に彼の右手を掴みわたしの右手と併せ、もう一つの新たに編み出した修復の錬金術を発動した。

 必死で自分に触れようとするわたしを見てなにを察したか、ゾルフは爆弾の力を使いながら刑務所の面会室ごと女子棟を半壊させ、一旦刑務所の外に逃げた。彼は、賢者の石によって力を大幅に底上げしたわたしの錬金術が一体なにを引き起こすのか、恐らくあまり理解していなかったに違いない。ただそれでも、”両手で直接触れられたら最後”くらいの推測を立てていたのだろうし、それはかなり当たっている。ゾルフと組み合わせると新しい効果を発揮する錬成陣は、両手で触れた人間の血中酸素濃度を著しく減らす効果を付与した。賢者の石ブーストによって可能になったことの一つだが、実行するまで本当にできるとは思っていなかったので驚きだ。

「面白いが、本気ですか?その程度で――わたしを殺す気とは!軍人なんですよこっちは、研究畑にいたあなたとは環境が違う!」
「研究畑の頭の中を、研究者とは名ばかりの国家の犬が理解できるとは思えないな!」

 わたしはゾルフを追って刑務所から出て、すぐ近くの下水用水路を氷結させ滑空してセントラル郊外の林に出た。ゾルフは林の手前までくると、少し小高い崖から見下ろしてこれ以上逃げるつもりはなさそうだ。彼にも民間人の犠牲を疎むような常識的なところがあるのかと少し意外に思ったが、いや、ただ部外者に邪魔されたくないだけかもしれない。
 セントラル東部から鳴り響く非常事態のサイレンと救急車のカンカン音が風に乗って聞こえる。わたしは自身の”左わき腹”に触れたあと地面に手をついた。途端に地面に亀裂が走り彼が立っている崖を足元から崩す。バランスを崩し崩落に巻き込まれる彼が、驚きに目を見開くのが見える。

「なぜわたしが塑性以外の錬金術を使えるのか知りたい?」

 鷹揚に聞いてやると、瓦礫を押しのけながら彼は苦笑いした。

「面白い。とても面白いですよ、ユレー。どうなっているんですか?教えてください」
「内臓に別の錬成陣を刻んだの」教えの請い方が白々しい、と思いながら答える。
 ゾルフは「なるほど」と神妙な顔つきで唸った。「確かに刑務所では皮膚に錬成陣を刻むことはできませんからね」
「そういうこと」

 わたしの脱獄計画は、模範囚として風呂場でのみ手枷を外すことが許可されるようになってから始まった。唯一手枷が外せるとはいえ風呂は当然監視が厳しく、また全裸で街中を逃げ回る畏れがあるため脱獄は厳しい。しかし、『キンブリー中佐の面会中』に監視の目がほぼなく、特別面会室が刑務所内でもかなり”出口”側にあることから、特別面会室からの脱出は難しくない。
 わたしは一週間に一度の風呂を使って少しずつ自分の内臓や骨に僅かな傷をつくり錬成陣を刻んだ。皮膚を傷つけると定期検査で全裸にされたときバレてしまうので内臓にした。塑性の錬金術のみではゾルフを殺傷せしめることはできないが、身体の内部を弄ることにかけては専門だと自負している。真向から立ち向かったら爆弾を専門としている彼にはかなわないが、例え門外漢と分かっていても攻撃力の高い奴を考え五か所に刻んだ。
 人間の体はそう簡単に変化しない。傷をつければ塞がるのは当たり前、だから、彼が面会希望を入れてきそうな時期を狙った。そして身体の準備ができると今度は掌の錬成陣に少しずつ傷をつけて書き換え始めた。
 脱獄には手枷の破壊が必須条件、面会中に中佐の目の前で手枷を壊すのはほぼ不可能に思える。しかし、”面会中には格好の錬成材料が目の前にいる”。錬金術に必要な工程は、理解・分解・再構築。例えば普通なら、ロイ・マスタング大尉(今は少佐かもしれないけど)の焔の錬成陣にわたしの左手をくっつけたところで何も発動しない。それは、@彼も私も双方に互いの錬成陣を理解していないから、A双方の錬成陣は全く違う効果を求めて作られたものだから、だ。しかし、同じ師を仰ぎ、共に学んだわたしたちは互いの錬成陣のことを本人と師匠の次に理解していた。わたしは彼の左手と右手それぞれに対応するような別々の錬成陣を編み出し、床の石や木のささくれを突き刺して傷つけながら新しい錬成陣を掌に刻んだ。あとは、わたしが”紅蓮”を理解しているのと同じ程度、彼が”塑性”を理解していれば陣は発動する。
 そして賭けに勝った。

「ゾルフ、あんたがわたしの錬金術を理解してくれてて助かった」
「…………あなたは凡人だがたまに天才的な閃きをする。きっと向いているんでしょうね、そういうところは好きです」
「そういうところってどういうところ?」
「わたしは、人間がある目的のために我武者羅に藻掻く姿が好きなんですよ。己の本分を全うする人間というのは美しい」
「わたしの本分はこんなことじゃない。わかってるでしょう?」

 彼はいつもわたしのことをわたし以上にわかっているような口を利く。いつかの問答もそうだ。賢者の石があれば、わたしの欲するものが手に入るかもしれないと彼は言い、でもそれが叶わないだろうとも言った。

「わたしはあんたが好きなタイプの人間じゃないんだよ」

 ぽつりと呟いた言葉は小さくて、彼の耳まで届かないかもしれない声だった。しかし彼は楽し気に浮かべていた笑みを少し消して口をつぐんだ。瞳の色が黒く、暗い赤銅に落ちていく。

「あなたも、わたしが許せるタイプの人間じゃない」わたしは囁くように言った。
「知ってますよ」ゾルフも呟いた。

 瓦礫の上に立つ男は忌々しいものを見るように目を細め、両の掌を広げ構えた。
 今度こそはっきりと、明確な殺意を感じる。瞳の奥に隠された、十年越しの憎悪と嫌悪がヒリヒリと肌に迫る。彼はこんなにもわたしを憎み、嫌っていたのかと改めて思い知ると、彼に対する爆発的な気持ちとは裏腹に心のなかにさみしい風が吹き抜けた。
 マグマのような怒りと虚しい雪の冷たさが一挙に去来するような、そんな複雑なギュっとしたなにかが心臓にわだかまっている。わたしはそのたんこぶのようなものが心臓にくっついている限り、やはりゾルフには勝てないし彼を殺すことなどできないのではないかと思わずにはいられない。
 母に会わなければ。
 心労をかけたことを詫びて、一言「達者で」と伝えなければ。
 そう思うのに、しかし悪い予感や予想は当たるもので結局十五分もせずに爆撃が直撃し、吹き飛んだ先に突き出ていた樹の先端に腹部が突き刺さった。

愛になり損ねたもの

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