松平長官の伝令、いわゆる「秘書」という仕事に就いてから一年あまり経とうとしているが、今の仕事はこうだ。
一日のスケジュールの管理や、あがってくる書類やメールのチェック、郵送物の点検から、来客への対応、といった通常の秘書の業務は勿論、出かける先の警備計画書の点検や、娘の誕生日プレゼントの買い物、贔屓にしているキャバクラ嬢への貢ぎ物探しまで。
警察庁長官という立場であるが故の特殊な仕事内容や、どうでもいい私的な事まで、やる事が多い。
それに、長官の馬鹿な我儘に付き合わされる事もしょっちゅうで、深夜に電話が鳴る事も珍しくはなく、警察官として培ってきたキャリアはあまり役には立たない。
それでも、たまに愚痴を零し、どこかで何らかの形で鬱憤を晴らして、それなりにこなしてきた。
伊東の話によれば、上層部は一年ももてばいいと思ってたようだが。長官に散々使われて毒気が抜けるどころか、逆に長官をやりこめていると噂になっているらしい。
私にお灸を据えてやりたいと思っている人間には悪いが、残念ながら、ご期待に沿えられそうにない。
といっても、進んで私を引き取る様な部署があるとは思えず、これからもこの飼い殺しの状態は続くのだろう。
それも仕方が無い。
これが私の選んだ道だ。
仕事が終わって、ママの店へ寄る途中、歌舞伎町にある馴染みの花屋へ寄った。
ママが花を頼む時はここと決まっていて、私個人もよくこの店へ来る。
今日はママに頼まれて支払いに来たのだが、店にいたのは店主ではなく、娘の薫の方だった。
店主とは昔からの顔馴染みだが、今は薫との方が親しい。
薫も私を客としてではなく、友人と接する様な態度で気軽に支払いに応じた。
「どうやら元気でやってるみたいじゃない」
「そっちこそ。もう一つの仕事も順調そうで良かった」
「順調って言ってもいいのかしら。ヘマはしてないんだけど、この不景気でしょ。依頼そのものが少ないのよね」
「じゃあ、何かあったらお願いしてもいい?」
「ええ、お願い」
その辺のホステスよりもずっと華やかな笑顔を見せた薫だが、彼女には公に出来ない別の顔がある。
全蔵と同じ、裏の世界の顔だ。
そもそも、店主の娘と客として顔見知り程度だった薫とは、私が警察官になる前に、全蔵を介して仲良くなった。
ここに来るのは、この古くからの友人の安否を確認する意味もある。
薫に別れを告げて店を出ようとすると、道を歩いているカップルに、ふと目を止めた。
男は肩に刺青が入っていて、いかにも遊び慣れているようなガキ。隣にいる若い女の子の肩を抱いて離そうとしない。
女の子はというと、困った様に笑っている。
一見すると、普通のカップルが歌舞伎町のどこかの店へ遊びに来たかのような光景だが、頭の中ではそう簡単に処理出来ない。
その女の子は、長官の一人娘である栗子だった。
これじゃあ、帰るどころか、目を離を離す事も出来ない。
私の視線の先と考えを汲み取ったのか、息を吐いたのは薫が先だった。
「あの子…あんたの上司の娘じゃない。あんなのとつるんで大丈夫かしら」
「あの男の事、知ってるの?」
「この辺じゃ有名な悪ガキの一人よ。通りすがりの女の子を強引にナンパしたり、警察沙汰になる様な揉め事起こしたり。裏じゃ暴行やら薬もやってるんじゃないかって話もあるくらい」
「ふーん…」
父親の松平は栗子を溺愛しすぎだし、栗子はただですら親に反抗したい年頃なので、馬鹿な事の一つでもしてみたくてこんな所へ来たんだろう。
両親を早くに亡くした私には、よく理解出来ない。
そう言われればそれまでだが、私は姉さんが生きている間に夜の歌舞伎町をほっつき歩く様な事はしなかった。絶対に。
少し痛い目に遭えば、やっと色々分かるだろう。初めて見える物だってあるかもしれない。
でも、誘拐されでもしたら、私の仕事がまた増える。
それに、女の子が泣くのを見るのは、いいものではない。
派手なネオンが彩っている周りのビルではなく、薄暗い雰囲気の路地に二人が入っていくのを見届けてから、体が動いた。
後を追おう。その後は…成り行きに任せる。
「どうせ止めたって行くんでしょ?さっさと行ったらん?」
「仕事を増やしたくないもの」
「だろうと思った。じゃあ、十分経って携帯に電話するから。出なかったら警察を呼ぶわね」
「五分でいい」
花屋を出て二人の後を追い、あまり綺麗だとは言えないビルの地下へと入る。
ドアの側に立っていた男の制止を無視して店内へ入ったが、足元が覚束ない程、外より暗い。
だからといって、店の人間に捕まるのは面倒だ。栗子を連れ出して、さっさと帰りたい。
様々な音が鼓膜に突き刺さってくるのを許しながら、閑散とするフロアを急いで見渡す。栗子はフロアにはいない。奥にいるのかもしれない。
掻き分けるだけの人がいないフロアを抜けて奥へ進み、引いてあったカーテンを開ける。
と、栗子はそこにいた。
それから、男も。
しかも一人ではなく、何人もいて、栗子はその中で強引に酒を薦められている。
男達の、威勢がいいだけで迫力には欠けた視線と、栗子の縋る様な弱々しい視線。その二つを、ほぼ同時に受け止めた。
よく見ると、栗子の側には、クスリをキメた後の様な表情の男もいる。
「棗、さん…」
「美味しいケーキを食べさせてくれるカフェに誘おうと思って。ケーキ、お嫌いじゃなかったですよね」
「はい。でも…」
「そういうわけだから、今日はここまで。あんた達も、こんな所で遊んでないで、さっさと家に帰って宿題でもしなさい」
「あ?何だこの女」
「これでも十八過ぎてるっつーの」
「この子は十八過ぎてないの。捕まりたくなかったら、さっさとその子を離して」
「いいじゃん。お姉さんも一緒にここで飲まね?裏に行きゃ、これ、もっとあるよ?」
そう言った栗子の隣にいる男は、テーブルの上にあった白い粒を噛みくだいた。
最近流行っている錠剤タイプのクスリだろう。男の目が一気に開く。
再び肩を組まれた栗子の目に、怯えの色が強く滲んだ。心なしか、肩も震えている。
あー、もう面倒臭い
昼間は父親、今は娘。どうしようもない親子だ。
溜め息と一緒に言葉を吐いた。
「あっそ。じゃあ、相手してあげる」
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