陽の光がまたほんの少し。前よりも高い位置から差し込んでくる。そのお陰か。部屋全体がほんのりと温かい。僅かに強くなった光と匂いを後に、行ってきますと小さく呟いてから。暖房を消す事もなく部屋を出た。


同じ空の筈。吸っている空気そのものも。何も変わらない筈。地球のどこに行こうが成分までは同質のものであるのに。でもどこか違う。これまでに見上げた先に在るものも、体内に入り込むものも。同じ様で違う。そう思うのは感覚的なものでしかないのだけれど。でもそれ次第ではどうとでも取れるから。別の物のように思うのかもしれない。

もしや「変わる」という事はそういった小さな事や、「変わろう」という気構えにすら「意識を向ける事」でもあるのだろうか。考え、もう一度空を望む。軽く息を吸い込む。そうして、この感覚を失いたくなかった。覚えていたかった。自分の細胞にこういうものだと、教え込みたかった。

その時。どこからともいえない風が、さっと吹いた。呼吸を促すかの様に。なのに沢山のものが詰まっているかのような匂いと共に。喉の奥を擽るような風が指の間を、髪の毛をすり抜けていく。


「どうしてるかな」


唇から零れた言葉は流れに乗って空気に紛れ込み、見上げた先の青い空へ。それでもその言葉はどこへ行くでもなく。ましてや向こうへ届くわけなんてない。なのにそのまま。飛んでいって伝わればいいなんて。こんな風に女々しい事を思うなんて。きっとどこかにあるせい。未練なんてものが。私らしくない禍々しいものが。知らない間に巣食っている為。

それは昨年までと違う春を迎えたせいか、仕事に対してのものか。答えはその内、きっと知る事になる。それは引き延ばすというのではなく後回しにする事でもない。日々の生活の中からゆっくりと拾っていけたら。それを見つけられたら。そうして答えだけでなく、少しでも何か多くの事に気がついていければ。それでいい。空に、空気に感じた事の様に。こうして少しずつ、何かを感じ取っていければ。未練の先の答えも自然と見つかる。そう思う。


手に取った書類の意味がてんで分からない。思わず目を剥きそうになる。それを堪えて溜め息を飲み込む。また笑顔を浮かべる。流石に強張ってやしないかと思いきや、相手はただ笑っているだけ。辟易しつつ、意味を尋ねてやろうとする言葉すら。ぐっと喉の奥に押し込んだ。

抑えて溜めて堪えて我慢。

吐き出すのは煙草だけ。溜め息を抑えるようになった今ですら、変わらないものはある。それは仕事用のこの笑顔。幸か不幸か。こればかりはどうにもならないらく。変えたくても変えられない。しかも相手に対して悪い印象を与えないのだから。どうにもならない。


「私が、ですか?」
「君以外に頼める人がいなくてさ」


目の前の男の顔を捻り潰してやりたい衝動に駆られたものの、これもまた抑えて堪えて我慢。そして今度は先程とは違う意味で唇を釣り上げた。


「じゃあ、吉岡さんにやらせてみて下さい」




「どうだった?何か感想は?」
「うーん…。そうですね…」


苦笑いとでもいうのだろうか。眉を寄せて唸っている。何というべきか。言葉を選んでいるのは目の前にいる吉岡さん。その為か、フォークをくるくると回す指先の動きが少し鈍くなった。そして一口。直後の目の細め方は満足からくるものだろうけれど。喉の奥でうーんと唸る声は味についての感想なのか。言葉が詰まっているのか。両方にも取れる。「あんな感じだったかなぁ」とやっと声を発したのは、パスタが喉の奥を通った後の事だった。

去年までの私の仕事だったもの。それを今年は吉岡さんに頼んだ。内容は今年の新入社員の子らの案内役。元々は前年度の新入社員の子が負う役目なので当然といえばそうなのだけど。あの馬鹿なハゲ課長の事。また私に頼んでくるであろうことは見通し済み。なので先手を打って吉岡さんを推薦したのは三月の終わり頃。資料作りも必要だった為、私がサポートに回るという事で最初はハゲ課長を、そして吉岡さんの承諾を得た。

最初はがちがちに緊張していたものの、「慣れ」と、次第についていった「自信」のお陰か。日が経つにつれ減っていったのは、吃りと私の元へ来た回数。夕方になる度にぐったりとする吉岡さんを労いつつ、たまに吉岡さんのサポートに回りつつ。今年は自分の仕事に打ち込んだ。変わらずに残業もこなしたけれど。ブランクがあったので仕方がないといえばそう。

でも去年までと違うのは、それでもまだ余裕があった事。猿飛と夜桜を見に行く事が出来た。それにこうして吉岡さんとのんびりお昼を取る時間まで。そこが去年迄の、この時期とは違う部分。だからオン・オフ共に、それなりに充実してる。今までなら考えられなかったけれど。もしかしたら、そう言えるのかもしれない。


「あー。やっぱり要さんて凄い。正直疲れました」
「そ?」


私への褒め言葉ついでに文句も一つ二つ。表情をくるくる変えながら言葉を並べ立てるのだから。失礼だとは思いつつ見てて面白い。案内も終わった事だし、また新しい仕事も頼まれて。なんて誘ったら今度は一体どんな顔になるのか。想像しただけで目尻が下がりそうになる。

その時。視界の端で通行人のネクタイが、スカートが、一瞬宙を舞った。この時期特有の少し強めの風が一瞬、吹いた様。小さなゴミがアスファルトの上を滑らかに転がっていく。オフィスに戻るのがほんの少し恨めしく思えたところで吉岡さんが口を開いた。それはデザートを楽しむためではない。いつもの様に。私に対して単なる疑問をぶつける為。


「坂本さんの所に行かなかった理由って何なんですか?」
「んー…。やり残したことがあるから」


表情を見る限りでは答えの意味がきっと分かってない。きょとんとした眼をしている。でも吉岡さんがどうしてそんな表情をするのか。理由は分からなくもない。

プロジェクトも終わった今、また前の様な日常の繰り返し。ここでやれる事なんてたかが知れてる。坂本さんの所に行った方が間違いなく仕事らしい仕事が出来るのだから。やり残した事なんて。吉岡さんには何もない様に思うだろう。それは私を知らないから。そう思うのだろう。

でも高杉は。高杉の場合は違った。

それは高杉に行かないと告げた時。高杉の反応は意外にもあっさりしたものだったから。やはり私を分かっているからだと思う。吉岡さんとの反応の差はその部分。理解しているからこそ「分かった」とだけ。答えたのだろう。


凹と凹の組み合わせ。今にして思う私と高杉の関係は、一言でいえばそんな風。同じものでありながら合致する事などない。どこかが欠ける。相手を求めるのに。それでも補え合えない関係、だったように思う。

それは高杉も分かっていた事だったのかもしれない。私よりも先に。ずうっと前から。どんなに私の体が高杉を受け入れても。どんなに一緒にいようとも。あの目が何よりも証拠。もしや満たされた事なんて。今まで無かったのかもしれない。そしてそれは私が向こうに行ったところでもきっと同じ。自分と一緒にいてはきっと変わらないであろう事も、高杉は見抜いていたのかもしれない。


結局私は甘えていた。高杉に、自分にですら、寄りかかっていた。子供の様にわがままを通した。でもそんなの許されるものではない。何時までもそのままでいられる筈も在る訳ない。今回はその時が来ただけ。そう思って高杉をこれ以上繋ぎ止めておく事もしたくなくて、けじめをつける意味もあって、私は選択した。

高杉と離れる事を。

それでも高杉に詫びる気持ちなんて、そんなもの一切ない。一緒にいた時間は夢ではなかった。出鱈目なものでもなかった。恋人という枠に捕らわれなかっただけで、その時その時に過ごした時間や交わした視線、肌の温もりは紛れもない本物だった。あれら全ては虚飾に塗れてなどいない。全て真実、誠実なまでの現実そのものだった。そう考えれば、あれはあれで幸せな日々だったと言えるのかもしれない。だから高杉も「一緒にいる事」に、その部分にこだわったのだろう。

それに永遠の別れになる訳でもあるまいし。アメリカなんて飛行機ですぐ。メールでやり取りも出来る。しかも、そんなつもりはない様な事を、高杉の口から聞かされた。そうでない事を仄めかされた。

あの時の言葉はきっとそういう意味。自分を忘れさせない為の、諦めてないのだと分からせる為の、それは枷(かせ)。馬鹿げた意地だけど本音だと思う。それでも嫌な気はしない。高杉の性格上やりそうな事だし言いそうな事。二、三年後か十年後か分からないけれども。それは案外近い未来かもしれないとも思う。なぜそう思うか。


『今よりずっといい女になってろ。迎えに来てやる』

…高杉には勿体無い位。今のままでも十分いい女でしょうよ。分かってるくせに


高杉だもの。同じ様に思ってるに違いない。そして、あの時の言葉が実行された時、私はどんな自分になっているのだろう。

ふ、と小さく。でも自然に、こんな風に笑えるのも高杉が残してくれたもの。これも中々取れそうになんてない枷である。


「要さん?何かいい事でもありました?」
「んーん、何でもない」


携帯のアラームが鳴った。あと十分で昼休みが終わる。まだ不思議がる吉岡さんにデザートを食べるよう急かす。顔色を変えながら食べる吉岡さんに先程の疑念はもう無さそうで。そんな吉岡さんを見てまた目尻が下がる自分がいる。


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