朝の冷え込みもそんなに厳しくなくなった三月。カーテンを開けると陽の光が随分と眩しい。目を細めてから、用意していた服を少しだけ陽の光に晒す。一年を通しても、この時期だけ。こうして少し太陽の匂いを服に浴びせつけるのは。
そのままにして軽くシャワーを浴び、上がって直ぐに髪の毛を乾かす。それからマニキュアも。寒い時期に比べると随分と乾きが早い様に思えた。それから台所へ行き、冷たく冷えたミネラルウォーターを飲む。以前は熱いエスプレッソだった。けれど、体が少し冷えたところで、風に体を震わす事が無くなったから。冷たく冷えててもいい。そうしてから衣服に着替える。ストッキングにスカート、ブラウス。そして軽めになったコートを羽織る。すると少しだけ、ほんの少しだけ、温かな肌触りを楽しめる事が出来た。
匂いもふわりと身にまとってから外へ出る。陽の光のお陰で、吐く息も白くない。すれ違う人のも、勿論私のもそう。手袋も必要なく、バッグの皮に触れる指先が少し冷たくて済む程度。
電車に乗ると、周りの人も薄手のコートなのに気づく。そして息苦しさにも。それどころか増した様な気さえ覚える。気温が高くなったせいだ。人間から吐き出される熱と、暖房の温度は変わらないから。余計なのだろう。
外の景色も随分と変わった。陽のあたる場所は自然と花がほころび、ウィンドウのディスプレイもパステル色に染まっている。吸い込む空気も違う。少しの埃っぽさと青臭い匂い。言い換えれば、土の匂いと植物が芽吹き始めた匂いとでもいうのだろうか。無臭で澄んだ空気とは違う。明らかに野暮ったくて何かが詰まっている、そんな匂い。こんな匂いも嫌いではない。けれど、どことなく頭がすっきりしない。ぼんやりとしてくる。この時期は決算の時期だからまだまだ忙しい時期だというのに。正直、平日にはあまり向かない空気なのだと、そう思う。
細々と詰めの作業だけが残っているせいだろう。チームで陣取っていた部屋の中に、以前の様な活気はどことなくない。でも仕事が終わった訳でもない。目の前にある資料の山、これが如実に物語っている。やるべき事はきちんとやる。そうしないと迷惑がかかる。それはうちだけの話ではなく、坂本さんの所にも。だからこうして目の前にある以上、手を抜けない。それに私の性分もある。どうしようもない。資料を前に少しだけ一息つく。そしてまだ来ていない皆より先に、とりあえず手を動かした。
高杉と会ったあの日から、本当はまだ少し胸が苦しい。食事をしている時も、歩いている時も、誰かと話をしている時も。寝ている時ですら、少し寝苦しさを覚える。それは仕事をしている今もそう。
初めての事だ。
高杉にあのような事を言われ、苦しくて苦しくてしょうがないキスをされ、肺の奥が締め付けられるような抱かれ方をし、一晩中頭を撫でられ、朝目覚めた時に掠めた煙草の匂いが苦々しく思ったなんて。
初めての事だった。
決心したはずなのに。もう流されないと決めた筈なのに。なのに何故こんなにも迷っているんだろう。悩んでいるのだろう。どうして私は「総悟の事か」と土方に聞かれた時の様に、あの時と同じ様に、答えられないのか。どうして私は高杉のあの目の意味を悟ってしまったのか。どうして私はあの時、沖田総悟の腕を振りほどかなかったのか。考えるのは同じ事ばかり。
どうして。何故。
あの日から、こればかりの繰り返し。そしてこれに時間を割き、思考を停滞させている。もっと仕事が忙しければ。他に熱中出来るものがあれば。そうすればこれ程までに考えなくて済んでいたのかも。少しは紛れていたかもしれないのに。そう考えると、本当に私には何もないのだと気づかされる。仕事がなければ、ただ息をしているだけなのだと知らしめられる。結局私は他の女の子達と一緒らしい。
これしか考える事がないって…
気がついた時には煙草とライターを引っ掴んでいた。
「…要さん?」
「ちょっと吸ってくる」
気が付かなかった。山崎君がいつの間にか来ていた事も。どんな顔をしていたのかも。沖田総悟がじっと私を伺っていた事も。数メートルと離れていない山崎君の声が、どこか遠くで聞こえた。
吸いたくもない煙草を吸いに喫煙室へと向かった。一人になりたくて。理由ともいえない理由をこじつけ、割と重い扉を開けた。すぐにライターを取り出し、煙草に火を点けた。肺一杯に煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。手元の煙草は昔から吸っている銘柄。だから同じタール数、同じ味。なのに感じるのは息苦しさ。そして、ちっとも美味しくない。ましてや口に中に嫌な苦々しさが残る。
それでもこれを手放したらここにはいられない。喫煙室は煙草を吸う所。理由がなくなる、ここにいる理由が。だから指から離れてくれない。必要ないのに、しがみついている。煙草なんかに頼っている。
気のせいかもしれないと二度三度と吸ってみる。けれどやはり同じ。増長していくのは1人でいられる充足感などではない、朦朧とした感覚。無意識のうちに排除しようとしたのだろうか。指に力が入った事に気がつかなかった。
「あ…」
フィルターの部分が折れてしまった。どうする事も出来ずしばらく眺めている。もう少し一人でいたかったのもあるから。
短くなった煙草をいい加減、見ていても仕方がない。赤いままの火を消そうとした時、少し違った空気が室内に流れ込んできた。思わずその先を見る。やはり土方だった。視線が合うと土方は右の眉を動かした。ほんの少しだけ。
「シケたツラしやがって」
「元々こんな顔でしょ」
土方は側に来ると直ぐに煙草を吸いだした。私は何を言うでもなく、ぎゅと火を消す。そしてすぐ漂い始めた土方の煙草の煙。そこでふと、ここにいる理由をこじつけようと考えた。煙草を変えればいいだけではないのかと。煙その物は嫌ではないから。そう考えた。土方には煙草を切らしたと言って一本貰い、同じように火を点けた。そしてゆっくりとまた煙を吸い込む。違う銘柄。違うタール数。違う味。なのに結果は同じだった。土方の煙草でも消えない。逆にもやもやしたものだけが、煙の様に不気味に寄り集まっただけ。