「棗、さん…?」


取調室の中には、神威一人だけ。

単にドアを開けただけだと、それしか見えていないだろう。

だから、私がここにいた事を知っている人間なら、そんな状況を不審に思うのは、当然の事だ。

それに、私の名前を呼んだ声に不穏の影が付きまとっているのは理解出来る。

そして、その声の主が、先程避難を促しに来た山崎君だとしても、改めて様子を伺いに来たのかと思えば、怪訝に思いはしない。


でも全身の緊張を解き、ほっと一息吐くにはまだ早い。

その声から、三秒、四秒、と経っても、山崎君が取調室に入って来ようとしないからだ。


落ち着かない心臓のまま、舌打ちを堪えて、壁際に寄った体をドアの前にゆっくり移動させると、今度は汚い言葉を吐きかけた。

山崎君の様子が明らかにおかしい。

ドアを開けただけで中にはまだ入って来ようとはせず、油が足りなくて四肢や首を動かせないロボットのように、全身がガチガチに固まったまま動かない。

顔も青白く、額からは大量の汗をかいている。脂汗のような冷や汗のような、両方が混じった、じっとりした汗を。

さらによく見ると、左斜め後ろからは拳銃の様な物が頭に付きつけられていた。ご丁寧な事に、腰にはコルセットのような物が巻かれ、リードのような物まで垂れている。

本物かどうかは分からない。でも偽物だと断言していい状況でもない。

神威も気づいたようで、短い口笛を鳴らした。普通の人間なら誰も歓迎しない状況を、また明らかに面白がっている。


私と目が合ったからか、そんな神威に呆れたのか。山崎君は頬を引き攣らせて微笑んだ。

こんな状況で、銃どころか警棒すら携帯していない私も、笑うしかない。


「…今避難しようと思ってたとこ」

「…そうみたいで…」


言い終わらない内に、銃身に頭を小突かれて、山崎君がそろそろと取調室へ入って来た。

その山崎君の背中の影の後を、視界の隅にいたドアの向こうの影がゆっくりと続く。


…一体誰


勿体ぶって姿を現さないその影に悪態を吐きそうになる前に、色と輪郭を取り戻していった影の中から現れたのは、あの顔だった。

私の後に一課に入ってきたあの女の子。

山崎君のパートナーにまんまと収まり、狂言で金髪のホストと絡んでいた私を路地裏で責めた、あの女の子だ。

この子が、土方君をも陥れた、裏切り者だった。


わざわざ靴を脱いで足音を消してここに近づいてきた女の子の顔には、あの時の路地裏の気の強さが今も溢れている。

勿論、負ける気はしないけど。


「…土方君を落とせなかった腹いせにしちゃ、ちょっと悪戯が過るんじゃないの?」

「キスぐらいで動揺するような小さい男には興味無いから。小物同士、仲良く付き合ってれば?」

「言っとくけど、別に、付き合って無いから。ああ、フリーの小物に、キスどころか手も握ってもらえなかったんだ。だから?」


女の子が私を見る目が一段ときつくなった。路地裏で会った時と同じように血が出る程唇を噛んでいるのも分かる。

図星、か。

そして、土方君への思いは、本物だったようだ。


「お喋りはこれでもうお終い。神威をこっちに渡して」

「嫌」

「あんたに拒否権はないって分かんない?この状況でよくそんな事が言えるわね」


この子が春雨の一員として潜り込んでいたのだとしたら、山崎君を人質になんかしないで、ここへ直接来て私を殺せばいい。それをしないのは何故か。

段蔵らの一員で計画に変更があったのであれば、こんなまどろっこしい事をせずに、引き渡しの理由を私に言えばいいだけなのに。何故それを言わないのか。

それどころか、女の子が時々神威に向ける視線は、身の上を安全を確認する為の物ではない。

向けられるのは、目に見えて分かる憎悪だけ。それ以外は何もない。

遅かれ早かれ、この子はきっと神威を殺す気だ。


その理由なんて知らないし、神威がどうなろうとどうだっていい気持ちに変わりはない。

でも、神威が私を殺して、山崎君は巻き添えを食い、警察官として身を置くこの子が神威を射殺。そんな安い筋書きに乗せられるのは、絶対にごめんだ。

監督、脚本、演出、主演、がこの子のドラマ、だなんて。冗談じゃない。

それに、神威を渡した時点で私達が殺されない保証がないのであれば、尚、首を縦に振れない。

嘲りを含んだような笑顔を浮かべる女の子を前に、気付かれないよう奥歯を噛んだ。


「神威にはまだ用がある」

「ダメよ。あんたは知らないだろうけど、私が貰い受けていい事になってるんだから」

「…山崎君にこんな事した上に、神威を私の元から連れ出していいなんて約束、誰からとりつけたの」

「分かってるんでしょ?段蔵よ」


女の子は一課に入って来た時とは口調をがらりと変え、自分の勝ちを確信したような表情で、はっきりとそう言い捨てた。

確かに、分かってはいる。

山崎君が腰に巻いている物を考えたら、下手に動く事は出来ないのも。掌には汗が滲んでいるだけで、私は何も持っていないのも。

だから、だけど、

どうすればいい。

じりじりと煮詰まりそうになる頭で考えていると、肩にぽんと手が置かれた。

ずっと黙ったまま私の後ろにいた、神威だ。


「心配してくれて悪いんだけど、俺なら大丈夫だから」

「…あんたの事は心配してない」

「そうなの?なあんだ、残念。でもさ、お姉さんが俺と取引してくれないんじゃ、ここでじっとしてたってつまらないし、どうせここにも長い時間いられない。それに、お姉さんなら、俺らを嵌めた奴を嬲り殺してくれるだろ?だから行くよ」

「…ちょっ…!」


進んで背中を向ける神威の手首を思わず掴んだ。絶対に離さない、その意思を力に込める。

神威は一瞬驚いたような顔をした後、「へえ」と嬉しそうに声を上げた。

そして笑って、掴んでいる私の手首を片方の手で掴んだ。それもかなり力強く、骨が軋む。

これでも鍛えてる方だし、普通の女性より力があるのも自覚済みだ。それに、神威は私とはあまり体型は変わらないのに。この体のどこにこんな力があるんだろう。

神威はそのままあっさりと私の手首を離すと、ぽきぽきと指を鳴らした。この状況では場違いな程、その音は軽い。


「俺もあんたの事が気に入っちゃったみたい」

「…え?」


軽い足取りの神威の背中を見つめながらその意味を問う間際、山崎君の体がぐらりと此方に傾いた。



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