結局、薬を手に入れないまま店を出た。
選べと言われたあの時、質が一番いい物、段蔵の息がかかっている所でしか扱っていないと言われている物を、記憶の中からわざわざリストアップして選んだくらいだ。一錠でも持ち帰りたかった。でも。
持ち出しが禁止だと言われた以上「今ここで使え」と言われない保証はない。
初来店した警察官の目の前で、変わり映えのしない微笑みを浮かべる女の顔にそう判断した。
偵察の終わりもそこで決めた。
薬を使う気なんて最初からないからだ。
薬のせいで判断を誤れば、何も出来ずに死ぬ事になる。そうなっては元も子もない。
だからまずは包帯の下に予め仕込んであった血糊を滲ませ、お腹の傷が痛いふりを装った。
そして女の子のキス攻めに遭っていたホストと一緒に店を出、今は大通りに向かって歩いている。
でも必要以上に引きとめなかった女から報告を受けた人間に、私はどう判断されるんだろう。
使えると思われたか。掃討すべきとられたか。
私は…
「んで?上手くやれたわけ?」
「さあ」
大通りへ出るなり、お腹を抑えたまま急ぎ歩く私に、ホストはそれだけを言葉にした。
口調には強引さや厭味ったらしさがない。それどころか結果自体にさほど興味もないようで、鼻をほじって、返事に深追いもしてこない。
単に私を気遣っているだけのようだ。
自分を利用した、この私を。
「何笑ってんだよ」
「別に。何でもない」
「…ま、いいけど。んじゃ、その辺のホテルで続きでも…」
「冗談でしょ」
欲求不満気なホストの冗談混じりの誘いを一蹴しながら歩いていると、後ろから視線を感じた。
誰かにつけられている。…いや、気のせいだろうか。
確かめる為にホストの腕を取った。そしてその足で、わざと裏通りへ。
ところが気配は消えない。絶えず一定の距離を保ったまま、影の様にぴったりとついて来る。
「いい?」
「…あ?」
返事なんてろくに聞いてられない。ホストをそのまま誰もいないビルの裏側の壁に無理矢理押し付けた。
関係のない人間なら「そういう事か」とまともに見ないでくれるだろう。つけてきたのが店の人間なら、それなりの用意をする必要がある。
どちらだろう。大きくなる足音と自分の心音を聞きながら、ホストの耳元に口を寄せ、腰に足を絡めた。
「オイ、何す…」
「死にたくなきゃ黙って」
自分達のしている事に夢中で、他は一切気にしちゃいない。そんな風にみせかけながら、バッグの底に仕込んでおいた小型のナイフを引き抜き、ホストのベルトに差し込んだ。
そうしてホストがされるがままになって、準備が整ってから数秒後。足音はとうとう背後に迫った。
相手はほんの数メートル先、そう考えていい。
「お楽しみ中悪ぃな」
そう背後からかけられた声は、聞き覚えのあるものだった。
でもそこで安心したどころか、一瞬で血の気が引いた。足元が崩れる様な衝撃に、声さえ振り絞れない。
私達をつけていたのは土方君だった。
それでも何とかして首を後ろに捻ると、土方君の表情に、一瞬、戸惑いが見られた。
目は幻でも見ているかのように、鋭く細められている。
でも次第に蔑んだ色を帯びていき、最後はまるで読めなくなった。
後ろには私の後に入ってきた女の子が。そこで無言のまま立ち尽くしている。
「…こんな所で…何してんだ、テメェは」
「何だっていいでしょ、別に」
「……そうかよ」
土方君が言ったのは、たったのそれだけ。責めも理由を尋ねてきもしなかった。
そして背中を向け、私の前からあっけなく姿を消した。
理由を述べる事も、追いすがりも出来なかった私の耳に、心音はどくりと大きな音を残して止んだ。
代わりに残った女の子は土方君の後を付いていかず、失望した目で私を見ている。
「…本当、何してるんですか」
「さあ。それから追尾の仕方、もう少し考えた方がいいよ。気配が消えてなかった」
「…休職中にこんな所でこんな事してる人に注意を受ける義理はありません。…しかも土方さんと付き合ってたんじゃ…」
「別に付き合ってないし、あなたには関係ない。…ああ、好きなんだ、土方君の事」
「それだってあなたには関係ありません」
目尻を歪め、唇を噛みしめている女の子の表情に、何となく気付いてしまった。
土方君以上に怒って、私を責めて。
この子は土方君の事が好きなんだと。
でも。だからって。何だっていうわけ?
開き直りはそのまま表情に出たようだ。
女の子はそんな私に向かって唾を吐きかけるように呟いた。
「…土方さんが可哀想」
その言葉に、私は声を出さずに笑った。
これで何かを守った。でも失いもした。しかも他人にはまるで理解してもらえない。
それを聞いて、それら全てを一遍に味わったからだ。
二人が去り、ホストのベルトに挟んであったナイフを抜き、体を離した。
…なんてザマ
途端に抜け殻になってしまったような虚無感に襲われ、今は何をしたらいいのか全く分からない。悪夢でも見た後のような最悪の気分だ。
体が自由になったホストは、頭をぼりぼり掻きながら、そんな私に背を向けた。
「ラーメン食いに行くぞ」
「…ラーメン?」
「付き合えよ。どうせ暇だろ」
お腹なんて空いてないから勝手に行けと言ってもよかった。
でも今は何となく一人になりたくない。
さすがホスト、と言っていいのだろうか。
さっさと歩いていくホストの背中を、私は胸の内でそう呟いてから追い掛けた。
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