何かが頭に触れた。感触からいって、手、だ。


誰の…だろ…


閉じていた目を開けると、手はそっと離れていった。側にあった気配も途端に小さくなっていく。

そして何度も目にした天井が視界一杯に広がり、暖かい布団の中にいるのだと気が付いた。

お腹の辺りにある妙な違和感の正体は包帯だという事も。


私は病院にいるらしい。

つまり、死んでない。


「気がついたようだな」

「…いたの」


喉がからからだった。それ以外に言葉が出てこない。

伊東は気付いた様で、口元だけで笑うと、水差しを黙ったまま口元に持ってきてくれた。






「君に頼みたい事がある」


十日程前だったか、仕事中に伊東から呼び出され、いつもの料理屋で会った。

そして注文をし終えるなり、いきなりそう切り出された。

つまりこれは会食などではなく、接待の類であるらしい。しかも二人きりじゃなければならない話をする気だ。

ウーロン茶の入ったグラスを手にとり「で?」と短く言って言葉を促した。勿体ぶられるのは性に合わない。

伊東も承知しているからか、言葉を持て余す事はしなかった。


「段蔵という男を知っているだろう」

「姉さんの同僚だった人で、今は歌舞伎町に出回ってる薬の大元締め、でしょ?」

「会った事は?」

「姉さんが生きてる内はあるけど…。葬儀の後はあるわけないでしょ」


段蔵は元警察官で、ほんの一時期、姉さんに仕事を教えてくれた同僚でもあった。今の私と土方君のようなパートナー関係だった、と言ってもいいかもしれない。

そして姉さんが亡くなってから、段蔵は警察を辞め、裏社会に潜むようになった。

お陰で姉さんの話を聞く為に居場所を突き止めようとした私の努力は全て水に流れた。

何の因果か、鳳仙がいなくなった今じゃ、歌舞伎町の薬の大半を段蔵が仕切るようにまでなっている。


伊東は私の話に「そうか」とだけ答えた。でも今度は私が疑問を抱える番だった。

辞めた人間は伊東の管轄外のはず。今になって何の用があるんだろう。


「何で薬の売人なんか相手にしてるの?」

「君が鳳仙を捕まえてから、警察に向けられる世間の目が随分とまたシビアになってね。これ以上何かあっては困るんだよ」

「ああ、そういう事」


伊東は明言を避けた。でもそれで分かった。

警察官の中の誰か、もしくは警察官の家族が、何らかの形で段蔵に関わっているらしい。


「それで…何があったの?」

「…実はうちの方で送り込んでた人間が一人死体で発見されてね。どうやら段蔵が絡んでいるようなんだ」

「前に言ってたよね、潜入捜査はこの国じゃ許されてないし、違法捜査で得た証拠はケチがつくから使えないって。どうしたの?形振り構っちゃいられない状況なの?」

「その辺りは聞かないでもらいたい。君も知らない方がいい」


これには上の人間が動いているという事を暗に言いたいのだろう。

私もそれ以上は聞かないでおいた。

伊東には伊東の立場がある。私も余計な詮索をして無駄に痛い思いをしたくない。


「で、私に何しろって」

「代わりに君に潜ってもらいたい」


聞きながら口に入れた前菜の帆立が適度な噛み応えを歯に残して、舌の上でほぐれた。

伊東は黙ったまま、咀嚼中の私の表情を伺っている。

口の中がすっきりしてから、私は返事の代わりに再び疑問を口にした。


「ね、何で私なの?」


意外に思ったのか、伊東はふと笑った。


「君は僕が信頼出来る数少ない人間の内の一人だからだ。特に警察の中じゃ唯一と言ってもいい」

「へえー。光栄です、って頭下げようかな」

「茶化さないでくれるか。それに君は頭だっていい。酔っ払いや風俗嬢の相手にするだけじゃ勿体ないくらいにね。行動力だってある」

「他に理由は?」

「ない」


何も知らされずに放りこまれるよりは、ずっと良心的だ。伊東ならやりかねないのだから。

でも私にこの話を受ける義理なんてない。伊東が自ら潜ればいいとさえ思う。

伊東だってそれくらい分かってるだろう。

だから他にあるのかもしれない。私が必ず受けると踏んでいる隠された理由が。


少し調べてみよう。

聞いたってどうせ無駄だろうし、それが何なのか分からない限り、返事をしない方がいい。

伊東は仕方がないという風に、物分かりのいい顔を見せた。


「捜査が終われば今の署に居場所はない。それに他言は無用だし、事態が明らかになっても理解され難い仕事だ。だから無理にとは言わん」

「返事は少し待ってもらってからでもいい?」

「構わんさ。だが時間はあまりない」

「…分かってる」





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