どうせなら満開の時期に入学したかったな。友達と同じクラスでありますように。何の部活に一緒に入ろ。
中学の周りの友達に流されて入った高校だが、友達もいるとはいえやはり不安なようで、黒く光る靴の先に集団からはぐれた花びらが乗ったまま離れようとしない様を見ながら、次から次へそんな事を考えた。
ところが、一人だけ別のクラスになってしまった。お陰で、入学早々派手に躓いたような気分になる。
坂田先生と初めて会ったのは、ピンクの柔らかな花びらが乾いたままの灰色の上を舞う、そんな入学式の日だった。


銀髪。やる気のない目。下ネタの数々。煙草は吸うし、授業は真面目にやらない。大人なのに堂々とジャンプを読む。国語教師なのに白衣。若いのに健康サンダル。
…何、この先生。私に限らず、先生の第一印象は皆こんなものだろう。
でも、クラスの人とも次第に仲良くなり、熱があるのに出席し、好きなパンを買ってニヤついて、たまには一人になりたくて昼ご飯を一人で食べ、図書室で寝、馬鹿をやって物を壊し、悔しい事があってこっそり泣いた、そんな私をこの先生はちゃんと見ていた。そして先生はその度に呆れた顔をし、のらりくらりと適当な言葉で励まし、頭を軽く叩き、たまに私を叱った。

変な印象もあったが、そんな先生だったので、生徒の間では意外と人気があった。先生に本気で恋をした人もいて、しばらく経つと私もその内の一人になった。
だから「好きでした」「憧れでした」と伝えて、少しでも他の子と差をつけたいと何度も考えた。でも先生と生徒という間柄である以上、その告白は自己満足に留めておかなければならない。だから、距離を置かれたら?変に気を使われたら?困らせたくもない、と伝えた後の事も考えてしまい、結局は何も伝えられなかった。
そんな私でも、一度だけ、先生にキスをしようとした事がある。放課後、教室に二人きり、寝ている先生。絶好のシチュエーションだった。ところが、心臓があまりにどきどきし過ぎて苦しくなり、ほんの数センチを残したところで顔を離してしまった。寝ている相手にすら怖気づいたという事になる。
つまり、格好付けた理由をこじつけて思いを伝えなかったが、私は単に臆病者だっただけだ。

先生にはずっと彼女が出来なかった事もあって、そうした悶々とした思いを抱えたまま、進路を決める時期になった。
あー、そうなの。そこ?辞めとけ。あそこ?いんじゃね?でも…。
進学したい私に対し、普段はやる気のない先生が珍しくアドバイスをしてくれたのは嬉しかったが、先生から提案された大学はこの近くではなかった。
私の気持ちを知って暗に遠ざけようとしているのかと勘繰ってみたりもしたが、これも先生の仕事だ。生徒である私の事を思っての事だ。それはつまり、私を恋愛対象にみてないという事だ。
それに気付いた私は、先生からアドバイスされた、少し離れた大学へと次のステップを決めた。


結局、先生への思いも、関係も、どうする事も出来ないまま、卒業する日を迎えてしまった。
先生との日々はこれで終わる。この校舎で、教室で、準備室で、校外で、呆れた顔をされ、のらりくらりと適当な言葉で励まされ、頭を軽く叩かれ、たまに叱ってもらった日は、もう来ない。
そんな分かりきった事を改めて考えないようにしてたが、皆泣くし、卒業式にも関わらず元気に騒ぐものだから、式の後、皆の輪には入れずに屋上に上がった。泣くのを我慢するのに限界がきてしまったからだ。そこで、少し落ち着いてから帰る事にした。
先生から第二ボタンを貰えたら貰いたかったが、臆病者の私にそんな勇気はない。機会だって、きっとない。

晴れがましいような、寂しいような、また悶々とそんな事を考えていると、阿呆面の先生がやって来た。
どうやら煙草を吸いに来たらしいが、どうしよう、嬉しいが、気持ちの整理がまだついていない今は会いたくなかった。告白もボタンも諦めようとしてたのに。卒業式だというのに先生は普段と変わらない雰囲気な事もあって、空気の読まない表情や態度に腹が立つ。
先生は少し離れた所で煙草を吸い始めた。下を見下ろしていた私とは違い、目線は真っ直ぐに青空の先へ向かっている。
そのうち、土方君が第二ボタンをたかられてるのを見て文句を言ったり、お妙ちゃんがゴリラに付きまとわれているのを笑いながら見てたり、式の話や関係のない下らない話をした。すると、いらいらしていた気持ちは薄れていき、当然、こうしている時間が惜しくなった。


「…卒業したくないなあ」
「卒業なんざ、ここに来た時から分かってんだろ」
「そうだけど」
「おめーらには随分苦労させられたからなあ。俺にしたら、一安心だわ」


…あーあ。「おめーら」だって。
卒業する今になっても皆とひとくくりにされたという事は、私はやはり先生にとって数ある生徒の中の一人でしかないのだろう。
そう、何事にも卒業はある。先生から卒業する日だって、いつかきっとくる。
そのいつかとは、今だ。
今が、その時だ。
ボタンは、…いいや。諦めよう。


「……じゃあ、さよなら、先生」
「お、おお…」


先生には明るい声でさよならを言う事が出来た。だから…良かった。これで良かったんだ。きっと。
校舎を出て、人がほとんどいなくなった校門を出るまで、後ろを振り返らなかった。屋上からは私が見えている筈だからだ。
視界が滲む。先生と目を合わせる最後のチャンスかもしれないが、振り返らない。想いを引き摺りそうだし、そんな自分に更に嫌悪しそうだし、泣き顔を見られるのは何より嫌だ。
涙を堪えながら、まだ灰色のアスファルトの上を歩き出した。






あの日から、かれこれ三年が経った。
たまたま近くに用事があったので、花びらがとうに散り、緑の葉が芽吹き始めた桜の木の下の通学路を歩いて母校に寄ると、今日は入学式があったようだ。校門に立て札がかかってある。時間を考えると式はもう終わったらしく、懐かしさと興味から少し覗いてみたが、校門や玄関には誰もいない。お陰で、すんなり学校に入れてしまった。
それでも図々しく校内を見て回る勇気はなく、思わず屋上へ上がる。ここに来る時にはまだ寒かったし、屋上はきっとまだ風が冷たいし、校内では殆ど人と会わなかったから、ここでは誰とも会わないないだろう。
と、思ってたのに。
銀髪、白衣姿の、煙草を吸っている先生がいた。どうやら一人きりのようだ。
卒業した今も何気に3zの皆で会う機会が多く、先生ともたまに会ってはいたが、それでも二人きりにはならなかった。私が先生を避けていたからだ。
つまり、二人きりになるのは、卒業式のあの時以来になる。油断していた体の内側を一気に緊張感が走り抜ける。


「すみませーん、部外者は立ち入り禁止なんですけど」
「すみませーん、ここは煙草禁止なんですけど」
「違いますー。これはレロレロキャンディーですー。…って、何しに来た?」
「あーっと…、忘れ物を取りに」
「忘れ物?」
「うん。あのー、それ。下さい」


思わず先生の白衣の心臓の辺りを指差す。つまり第二ボタンだ。
…言った。とうとう言ってしまった。
卒業式でもないのに、テンパって、つい言ってしまった。大人になったというのにこれか。これじゃあ告白したも同じじゃないか。
いくら鈍い先生でも、流石に察した違いない。かといって、今更誤魔化しも不自然だ。吹く風は暖かくもないのに顔が熱い。掌に汗が滲む。
先生は不思議そうな顔で自分の第二ボタンを見、少ししてからいつもの無表情の顔に戻った。そして、ボリボリと頭を掻きながら近づいてきた。察したのか、面倒臭く思ってるのか、死んだ目の先生からは何も分からない。


「…ああ、これね。これか。俺ァてっきり…」


私の目の前に立ち、すっと影が近づいて来て、頬に何かが触れた。よく嗅いでいた煙草の匂いが一瞬強くなってから、離れていく。
先生の顔に一番近づいたあの日の事を思い出した。そして、自分が何をされたのかを知った。


「…えっ、ええっ!?何っ、何でっ!?知ってたの!?」
「馬鹿だろ、お前。知ってたっつーの。卒業する時も、たまに会っても何も言ってこねぇし。結局どうしたいんだよ。何で今更ボタンくれとか言うわけ」
「…どうしたいったって…。だって、教師と生徒だし」
「元だろ、元」


元なのは分かっているが、どうしたいのか分からない。自分の気持ちながら、それは本心だ。先生と生徒ではなくなった今、遠慮はいらないし、障害はないように思う。でも、先生と今更距離を縮められたらなんて、考えた事もない。でも、先生の事はやっぱり好き。…なんて、自分でも自分の事が分からない。
でも先生にだけだ。格好付けたり、理屈では説明出来ない事をし、会っただけでテンパってしまう、こんな風になってしまうのは。自分の事を面倒臭く思ってしまうのは。


「…ったく、おらよ」


先生の手で力強く白衣からちぎられた第二ボタンが、明るい太陽の光を受けながら私の掌に収まった。
それは真っ白で何の変哲もない普通のボタンだが、手が届かなかったものだ。諦めていたものだ。
臆病者だった昔とは別の感情で泣きそうになる。


「どうせこの後暇だろ。飯でも食いに行くか」


掌には先生のボタンが収まっている。太陽の光を校内で一番太陽に近い場所で浴びるコンクリートが、きらきら光って眩しく見える。前と違って今度は先生と二人でドアへと歩き出すと、少し伸びた二つの影は、そのコンクリートの上で重なる。
春はもうそこまできていたようだ。




この愚かしくも素晴らしき日々

title;浮世座

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