「…ああ、はい。じゃ」


電話を切って直ぐに溜め込んでた息を吐いた。
万事屋という便利屋を営んではいるが、熱心に営業活動をしてるわけではないので、仕事はたまに舞い込んでくるくらいだし、収入は不安定。だから仕事が入ればそれなりに嬉しいし、金が入るんだから家賃の足しにだってなる。だから安心もした。
だが、吐きだした息は、思いの外、ずっしりと重い。
あの女からの電話じゃなかった事が関係してるとは思いたくはない。だが、それ以外に心当たりがない。

…いや、いやいやいや。だってあいつ忙しいだろ

俺の気持ちに言い訳するより、あの女が電話をかけてこない理由を並べた方が簡単だ。あいつは仕事が忙しい。平日の日中にわざわざかけてくるわけがない。
あの女は、憧れの職業の一つとして知られている職に就いてる。そう聞けば、世間一般の人間は華やかな世界にいると思うだろう。実際、あの女が仕事に就く前に色々な情報を収拾してた段階でも、顔を鬱陶しい程輝かせながら感想を口にしたし、それを聞く限りじゃ俺だってそうだった。抱いてたイメージは他の人間とさして代わりない。
それに仕事に就く前のあの女の努力を知る俺からすると、あの女はやっと勝ち取った今の仕事をただ楽しんでしてるもんだ、そう思ってたが、現実は違うようだ。残業は多い、休日でも呼び出されれば仕事に行く事もしょっちゅう、そのくせ給料は安い。だから、二、三年で仕事を辞める人間も珍しくないという。
ただ、あの女は昔から負けず嫌いで、絶対に無理だと言われる事でもなんとかして乗り越えてきた根性もある。仕事を辞めろと言われても素直に辞める様な女じゃない。逆に、意地になるような、そんな面倒臭い女だ。だから仕事を続けていられるんだろう。

いつの頃からか、俺はそんな女を友達以上の存在として意識するようになり、とうとう自分のものにしたくなった。ぼんやりとではあるが、仕事がきついなら俺が食わせてやるかとまで考えた事だってある。
ところが、一緒に飲んでたある夜、「それでも楽しい」と、それまでの酔っぱらいの目付きとは違う、真剣さを滲ませた目を見て思い直した。
この女は、きっと俺の手には余る。広い海で泳ぐ魚、高い空の下で飛ぶ鳥。この女はそうした動物の様に、誰かに飼われたまま一生を終えるより、厳しい世界に身を置きながらも自分らしく生きるのを謳歌する種類の人間だ。俺の目が届く範囲に収まるような女ではないし、近づき過ぎて二人とも傷を負うくらいなら、ただ黙って眺めるだけでいい。
だからというわけではないが、それからは会う回数が減った。元々しょっちゅう会ってたわけでもないが、携帯のない俺の家に電話がかかってくる事はほとんどなく、気付くと一、二ヶ月に一度の割合で会うようになり、それがいつしか二、三ヶ月に一度になった。
その間に新しい女でも探せば良かったんだろうが、次の女をおいそれと見つけられる程、俺は器用ではない。行動力もない。要は、俺はあの女と違い、自分の狭い世界にいるだけで精一杯だったわけだ。


そして、あの女からの電話が一切ないまま迎えた、仕事の日。依頼された仕事が大した内容ではなかった為、前の晩に飲み過ぎてしまい、仕事に行くのが面倒臭くなってしまっていた。結野アナの朝のお天気予報を見逃した事もあって、いつも以上にやる気が起きない。約束した時間の二時間前になっても、体も意識も沈んだままだ。
だが、時間は迫る。ただ家で寝てたって金は懐に入ってこない。
仕方なしに、約束の昼過ぎ、まだ少し酒が残ってる状態で依頼主の金持ちじじいが住むホテルへ行くと、ロビーの隅にあの女がいた。向こうも仕事らしく、黒のスーツを着ていて、普段着で来た俺とは違い、小綺麗な服を来てる周囲と馴染んで見える。
たまたま居合わせた俺に向こうも気付いたようで、わざわざ小走りで走り寄って来た。


「何、どしたの」

「仕事だよ、仕事。お前も仕事だろ?ご苦労なこって」


その言葉をきっかけに、立ち話が始まった。
ここにいる理由から始まって、互いの仕事の話、あまり変化のない個人的な近況報告。久しぶりに会ったとはいえ、特に聞き慣れない話はない。良いのか悪いのか、簡単な単語だけで相手の今の事が分かる。時間の流れなんざ関係なかった。…と思ってるのは俺だけかもしれないが。
女は暇を埋めるだけの、俺は下らない仕事に行かなくてもいい理由を作るだけの時間を軽い話を交わしていると、女が待ち合わせてた相手が来たようだ。さっき俺を見かけた時とは違い、表情が一瞬で明るくなった。
俺と違って、仕事が充実してるならいい事だ。だから、そうか、と適当に見送りゃいい。ここはそういう場面だろ。
だが、それに見合うだけの笑顔を作る器量は、今の俺にはない。


「…ごめん、もう行かなきゃ。じゃね」

「おー。気ぃ付けて行って来いよ」


ごめん、ったって仕方ねぇだろ。どうせ行くんだろ?謝んな。
俺がそうしたつまらない事を口にする前にさっさと行きゃいいものを、女は仕事に行きかけた足を止めて、思い出したように俺を見た。


「あ、そうそう。坂田ー」

「?」

「携帯、まだ買って無いでしょ。早く買ってよ」


一年三六五日、俺に金がないのは知ってんだろ。メールなんざ打つのも見るのも面倒だし、電話をかける相手もごく僅か。そんな俺がわざわざ携帯を持つ意味はないし、割に合わない。そもそも、俺が電話をしたって出られるのか分からないだろうし、俺が飯に誘っても来るかどうか怪しいくせに。かといって、何度も電話出来るかってんだ。男には面子ってもんがある。
笑顔で走って行ってしまった女の背中に向かって、心の中で毒吐いた。
だが、こんなフリーターと繋がっていたいと思う気は分からないが、仕事中だろうと足を止めてまで伝えたい事らしいのは確かなようだ。
そう考えれば、この意味不明な要求を聞いても、悪い気はしない。

…携帯ねぇ

携帯に金をかけるくらいなら、パチンコ屋に行った方がいい。滞納してる家賃を払った方がいい。パフェを食った方がずっといい。
あの女には悪いが、携帯を持つとしても何時になるのか見当もつかない。だが、下らない仕事をくれたじじいの元へ向かう足取りが軽くなったのは確かだ。




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