勤めている高校の創立記念パーティーが開かれる、と聞いても、最初はあまり気が乗らなかったが、美味い飯と高い酒をしこたま飲み食い出来ると聞き、給料日前のピンチを乗り切るべく、当日は勢い込んで会場のホテルへと行った。すると、パーティーというだけあって、飯は確かに美味いし、酒もそれなりに高いものばかりで、理事長のばばあや校長のどうでもいい話も聞かず、調子に乗って飲み食いしてたところ、急に気持ちが悪くなる。
…隣で笑う同僚の坂本の心配してるんだかしてないんだか分からない呑気な声やにやけ面に一層胃がムカついたが、殴るよりもトイレへ行く方が先だ。会場から逃げるようにしてトイレへ駆け込んだお陰で、難を逃れる事が出来た。
そしてそのまま廊下にあった高そうなソファへと体を預けたが、誰がどう見ても、酒の飲み過ぎで潰れた人間、に見えるのか、居心地はあまり良くない。だからといって動く事も出来ないので、目を瞑って胸のむかつきをひたすらやり過ごしていると、おでこに冷たいものが当った様な気がした。
…坂本が気を利かせて水でも持って来たか?いや、でもホテルの人だったら…。働きが鈍くなってしまった頭の中でぐるぐるそんな事を考えながら、重い瞼を何とかこじ開ける。と、


「また馬鹿みたいに飲んだのか」


そこにいたのは、坂本でも、ホテルの従業員でもなく、着物姿で俺を見て笑う、理科教師を務めていた、元同僚の女だった。




学校に忘れ物をしたという坂本に誘われて、三人で学校まで行くと、元同僚だった女が理科室に寄りたいと言う。人と深く付き合う事を拒絶し、研究者の顔を捨て切れていないそいつにとって、余計な事を考えずに素でいられる理科室は、校内でも滅多にないそいつの居場所だった。気にするそいつの気持ちは分からなくもない。
そこで、俺と二人で理科室で待つ事にしたが、見たいと言ったくせに、元同僚は理科室の電気を点けようとしない。理科室内に入ってくる廊下の電気だけで懐かしそうに理科室内を見て回る女の表情が分かるし、着物の柄が何となく見えるくらい月も明るい。まあ、これで本人には見えてるようだし、満足ならいいけど。そんな好きに合わせて俺も薄暗闇へと足を踏み入れた。
折角だ、散々してきたどうでもいい世間話は、この際、抜きにする。


「高杉は?元気?」
「ああ。あのままだよ」
「再生医療の研究してんだっけ?あいつ、ちゃんとやれてんの?」
「…自分が受け持った生徒の活躍を気にするだなんて、銀八も随分先生らしくなったな。いや、すまん、そんな顔をするな。再生医療には医学だけではなく、薬学や生物学、工学、化学と様々な知識が必要になる。だから高杉は今それぞれの分野の研究者とチームを組んでやってるが、奴はどの分野にも精通しててな、この間も医学部出身の奴とやり合ったばかりだ。皆、高杉の知識の幅広さには驚いてるよ」
「卒業前から決めてた道だし、あの性格だからな、中途半端な事はしねぇだろうけど、あの性格だと浮いてんだろ」
「そうでもない。はっきりと物を言うから周りからの評判はいい。うちは外資系だから外国人の研究者も多いしな」
「ふうん。…お前の事に関しちゃ余裕ねぇみてぇだな」


視線を投げた先の左手の薬指には、銀色の指輪がはめられている。どうせ高杉から貰ったもんだろうし、高杉がわざとそこにつけさせたんだろうが、場所が場所だ、嫌でも目に入るし、その意味を探ってしまう。…あいつ、他の教師連中や俺の顔を想像して薄ら笑ってんだろうな。本当、趣味悪ぃ。


「ああ、これか。高杉がつけていけと煩くてな」
「…結婚すんの?」
「いや、高杉は早くに家族が欲しいらしいが、あいつはまだ学生だからな。そうもいかん」


呆れた口調ではあるが、目は笑っている。それもそうだろう、やっと高杉と結ばれたんだから。
俺から見て、こいつは高杉を好きなんじゃないか、と感じ取ったのは、高杉が高杉を好きな女を助けに不良共の元へ向かったと知った、あの時だ。普段は冷静でへらへらしてて、何があっても取り乱す事はなかったし、俺を含めた誰かの為に必至になってる姿をそれまでに一度も見せた事が無かったのに、あの時ばかりは違った。慌てて走って来て、「高杉が死んでしまう!」と涙声で俺に掴みかかってきた。それで何も思わないわけがない。
馬鹿な女だ。俺の気持ちに気付いてたくせに、俺に縋りついてきやがって。俺が断ったらどうするつもりだったんだか。
でもそれ以上の馬鹿は俺だ。一度、高杉に覚悟はあるのか聞いた事があったが、あれは俺自身に向けられた言葉でもあった。俺は下手に年を取った分、フられたくないという妙なプライドを捨てきれなかった。いい年して、友達という枠組みに完全に押し込められるのを恐れた。適当にここで一緒に働いて、その内一緒になるという自分勝手な未来ばかり思い描いていた。
そんな俺が、再生医療に携わりたい、と明確な将来を思い描いていた高杉に叶うわけがない。他に男がいるかもしれない女の肌の傷跡の為に人生を賭けるあいつに勝てる筈が無い。どれだけ想っても、曲がりなりにも自分の気持ちを正直にぶつける高杉に、俺は完全に負けた。だから、こいつが高杉を選んだのも当然の結果だ。癪に障るが、そう思うしかない。

ふと、隣にいる女の顔を見ると、おでこに何か付いている。小さくて、光ってて、…髪の毛についてる小さなラメが付いてるようだ。
取ってやるから目を瞑れと言うと、馬鹿は俺の目の前で大人しく目を瞑った。…いや、いやいや、他の男の前で何してんだこいつ。俺は高杉じゃねえんだよ、無防備過ぎんだろ。
呆れた。自分で目を瞑れと言っておいてなんだが、段々と腹まで立ってきた。俺はまだ信用出来る友人だと思われてる事に。俺なら何もしてこないだろうと高を括られてる事に。そして、何も出来ない立場に追い込んだ、俺自身に。
そっと近づいて、前髪を手で払う。それから、おでこに触れたか触れてないか、唇に感触が残らないような、そんなキスをした。人のもんに手を出したっていい事はないが、俺は高杉よりも先に、この馬鹿の事を…。せめてこれくらいはさせろ。
無理矢理奪う事も、押し切る事も出来ない中途半端な俺らしく、取れたぞとそれらしく声をかけると、元同僚はすまなさそうに笑った。


「すまん」
「いいって」


俺が今何をしたのか気付いたのかもしれない。昔と変わらない俺の気持ちも。でも、目の前の女は、俺に怒るでもなく、ただ謝った。「今、キスしてきたろ」と昔のようにずけずけと切り返して俺を困らせたり、俺の頬を思い切り引っぱたきゃいいものを、この馬鹿はしなかった。
その意味を深く突っ込んで、聞きたくない事を聞かされたって、互いに良い事はない。自らの手で見えない壁を築きあげないうちに、馬鹿との距離をおいた。これでいいんだ、これで。

しばらくすると、坂本が理科室に入って来て、電気を点けた。明るくなった教室で時計を見ると、かなり時間がたっている。
忘れ物が見つかって上機嫌の坂本がどこかへ飲みに行くこうと誘うと、女は今度ははっきりと断った。これからコーヒー豆を買いに行かなきゃいけないんだそうだ。この時間からかと聞くと、一時頃までやってる店だから大丈夫だという。
そういえば、ここでよくコーヒーを淹れてもらったっけな。砂糖なしじゃ俺には苦かったが。


「あ、あの喫茶店の豆?まだあそこで買ってんの?」
「あそこの豆じゃないとダメでな、今は私のより高杉が淹れる方が美味い。良かったら、今度、坂本先生と一緒に飲みに来い」


じゃあな。そう言い残したきり、振り向かずに去って行く後姿は、見知らぬ女のものに見えた。後にはもさい天然パーマの野郎が二人、理科室に取り残される。途端に、四方八方を取り囲む暗闇が濃くなったような気がした。
これが今の俺の現実か。会場で散々美味い酒を飲んだ筈なのに、何もかもを無視出来るような酔いに浸れる気配が無い。ホテルのソファに預けてきちまったか。


「そういえば、こういう時の歌があったの。…あまつ風、雲のかよい路、ふきとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ、…じゃったかの。のお、金八」
「金じゃねえし、あれのどこが乙女だ。悪魔の間違いだろ」
「そうか。なら、わしの目に、アルコール消毒が必要かもしれんの。じゃあ、改めて、飲みに行くか」
「てめぇの金でな」
「…はは。まあ、今夜はええじゃろ」


坂本の後に続いて、理科室を出、明るい廊下へと出た。数時間も経てば、俺達を照らすこの廊下の電気は不要となり、あいつのいない日常がまた始まる。何年経とうと、それがどんなに辛いものか、あの馬鹿は考えた事もないだろう。どちらかが死ぬその時まで、どんな形であろうと、あいつを一人にはしない。俺がそう決めた事も。きっと、一生知る由もない。
こんな事、知って貰わなくてもいいし、理解してくれとも言わない。だが、一生の友人として、これだけは願わせてくれ。俺をフって高杉を選んだんだ、必ず幸せになれ。それを証明するのは簡単な事だ。次に会う時は、さっきみたいに心の底から笑ってくれりゃいい。
…なんて、高杉の事を言えたもんじゃねえな。惚れた女の幸せを、あの高杉に他人に委ねて、それで良しとするなんざ、俺も相当悪趣味だ。



ぼくを葬る

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