「おい、おっぱい揉ませろ」
「…今、何て言った?」
「聞こえねぇのかよ。その小せぇおっぱいを揉ませろって言ったんでぃ」
「……小さいは余計だし、揉ませろって何?意味が分からないんだけど」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃねぇし」


いきなり両頬をつねった総悟に「胸違う!」と悲鳴混じりに叫ぶと、「…あれ、違った」とぺっと唾を吐かれた。その目は、幼馴染に対するものでも、仕事の愚痴を垂れ流しながら涙目になっている人間に向けられていいものでもない。損害を被って後悔している、うわあ、だ。私への憐れみさえ混じっている、冷たい目だ。
違った、って何だ。大体、つねられたくないんだけど。そう言いかけたが、温くなり始めたビールを飲んで、少し痛み始めた胃の奥へと一緒に流し込んでしまった。
というのも、人と話すのが好きだからという理由で医薬メーカーの営業の仕事に就き、総悟より二年程遅れて社会人になったのだが、アポはとれても契約が取れない。接待をしても話をはぐらかされる。同期も契約をとれているんだぞ、お前のせいでうちの営業所の目標が到達出来なかったらどうする、と課長に散々嫌味を言われて良い事が一つもない。今日も散々怒られた。明日、会社に行き辛い。
だから面白い返しが出来ないどころか、そうした事を総悟相手に愚痴って会社に感じる物とは別の罪悪感にも襲われてた事で、昔からの冗談に付き合える程の体力も余裕も無くなってしまっていたのだ。
だったら総悟と飲まなきゃよかったんじゃないのか、という話だが、今日総悟と会ったのだって、実はかなり久しぶりだったし、そうした冗談は不器用でSっ気のある総悟なりの励まし方だと知っているので、実の所、甘えてるだけだったりする。総悟にとっては迷惑だろうけど。


散々愚痴ったせいか、酔いが回ったからか、別れ際には何とか笑えたが、それから数日経ったある日。雨だろうが風だろうが、向こうの人に呆れられようが、何度も営業先のとある病院に足を運んで、散々胡麻を擂って、笑顔で接して、やっと心から笑う事が出来た。契約がとれたからだ。
そこでその日の夜、夜勤明けで眠いとぼやいていた総悟を無理矢理呼び付けた。総悟は結構心配性の気があるのでちゃんと報告をしたかったし、前回愚痴に付き合ってもらったお礼も兼ねようと思ったからだ。
ところが、勢いよくビールを飲み、気前よく料理を頼み、愚痴も零さずに笑う私とは対照的に、総悟は、ふうん、と言ってビールのジョッキを傾けただけだった。前の様な冗談も言わない。
誉めてくれとは言わない。でもこれじゃあ渋面を和らげた今日の課長の方が、まだ愛想が良い。


「ふうん、ってそんだけ?」
「顔はブサイクだし、胸はねぇし、どんな手を使ったのかと思って」
「それは…、企業秘密。っていっても、落とそうとしてる相手を念入りにリサーチしてるだけだけどね」



それから数日経ち、次の契約も決まりかけた、ある日の朝。午前中の診察が始まる前の営業先へ電話をする為、いつもより三十分程早く会社へ着くと、会社の前の道路に警察車両が列を作っていた。物々しい雰囲気の中、先に来ててその様子を見ていた同僚に話を聞くと、社長がテロ組織に薬品を卸している容疑で家宅捜索を受けている、との事だった。
…これで会社は潰れる。思ってる事は皆同じのようで、集まっている野次馬の中で同僚達が揃ってあたふたしている。私はというと、これが間違いだったらいいのに、と固唾を飲んで見守っていたが、希望を持つだけ無駄だと直ぐに悟った。捜査関係者は皆知った顔ばかりだし、彼らは間違った事をしない事も同じように知ってたからだ。
じゃあ私がやってた事は間違ってた事だったんろうか。私の仕事は後ろ指を指されるような事だったんだろうか。自分がやってた事を否定したはくない。でもそれは彼らが命がけで進めている捜査を否定する事になる。
その場から動けずにいると、社内から総悟が出てきた。総悟も私に気付いたようで、野次馬の中にいる私の顔を見るなり、ゆっくりと近づいて来る。互いに話をしないわけにはいかないようだ。


「知ってたの…?」
「…ああ」


私が今までに全然気付かなかったという事は、総悟がそれだけ気を使ってくれてたからだ。周りの人達からは、私に捜査協力を頼めないか、聞かれてただろうに、契約がとれただの、誉められただのと喜んで話す私を目の前にして、私に言いたくても言い出せなかったんだろう、じっと黙ってる今のように。だから曖昧な態度や言葉で私への返事を先延ばしにせず、潔く認めた総悟を、責める気にはならない。
そうだった、総悟も大変な仕事だったんだよな。私はそれを分かってた様で分かってなかったようだ。自分だけ大変だと思ってたけど、総悟だって愚痴を言いたかったのかもしれないのに。
この前奢った事で帳消しになったと思っていた総悟への罪悪感をまた腹の底に感じ、自分の会社の不正を知らなかった事に加えて、総悟の事すら分かっていなかった事実は、自分を一層間抜けに思わせた。


「ごめん。総悟も皆も大変だったよね。それなのに捜査に協力出来なくて」
「怒らねぇのかよ」
「だって捜査中だったんでしょ?言えるわけない事位分かるって。これでも一応社会人だから」
「………」


社会人だと言って物分かりのいい人間になったふりをしても、口に出して自分を納得させようとしてみても、少しずつ積み上げていった様々な物を失ったショックは簡単に癒せそうにない。口には出さないが、総悟も分かっているようだった。
それにまた一から仕事を覚えなきゃいけないのか。色々な場所で顔を覚えてもらわなきゃいけないのか。営業中の様々な出来事が頭の中で蘇る。その時の気持ちも湧きあがってくる。
心が沈んでいくのと同じ速さで顔も俯いていくと、地を這い始めた視界の端に、総悟の靴先がすっと入りこんできた。


「丁度いい。話聞きてぇんで、胸、貸せよ」
「…顔ね、顔」
「どっちも真っ平らだから変わりゃしねぇだろ」


仕事が大変そうなのにも関わらず、総悟はそう言って私を怒らせた。これでまた慰めたつもりなんだろう。
でもそれで心が温かくなったのは確かだ。


それから数週間経ったある日。あるお菓子メーカーの営業課へ就職した私は、新しい商品を宣伝する為に大型スーパーへ店頭販売へ行った。すると途中で在庫の全てを買いとりたいと言ってくれた人が現れたので、持って来ていた分をそのままその人のご自宅へ送り届けた帰り道、総悟に会った。
足早に近づく私を尻目に、総悟はお団子屋さんの軒先でのんびりとお団子を食べたまま、口を休めようとしない。しかも無表情を保っている。新商品のお菓子を食べて笑顔になってくれた数時間前の女の子達や子供達とは、随分な差だ。


「何だよ、走って来て」
「あのさ、今日の分、全部売れた」
「…それで真っ平らな胸も膨らんでるってわけか」
「真っ平らは余計だっての。いやー、銀髪頭の人が残り全部買ってくれてさ、今ご自宅に届けてきたとこ。あ、じゃあ、もう行かなきゃ。ありがとね」


お団子を一本寄越せ、と言いたかったが、そのまま背中を向けて走り出した。
さあ、会社へ戻ろう。持ってきてた在庫は全てなくなったし、総悟は今日も元気だしで、足がまだ軽いうちに。





「すみません、旦那」
「いいけどさ。いいの?あの新製品のお菓子、全部買ってもらっちゃって」
「気にしねぇで下せぇ。いつも世話になってるんで。良かったら、この団子も…」
「ってもう食ってんじゃねぇか!…でもよ、知り合いだったら沖田君が買えばよかったじゃねえか。あの子に沖田君の金で買ったって気付かれてたし」
「…そんなに勘のいい女じゃありやせんぜ」
「だって、総悟に付き合ってもらってすみません、だって。何で知ってんのか聞いたら、企業秘密だ、って言われたけど」



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