書類の名前を確認すると、坂田銀時とある。坂田銀時…同じ会社の人間だったのかと驚きながら、今になって初めて知ったその名前を心の中で復唱し、手元の資料にざっと目を通した。
それには基本的な個人情報の他に、入社してからの配属先と評価が書かれてある。そこで社内で見掛けなかった理由も知った。私が人事部へ移動してくる前に、坂田銀時はこの近くの子会社へ出向している。それから、表彰された事はあっても、その後の人生を決定付ける様な大きな懲戒処分を受けた事はなく、資料を読んでも公園で会っている時の印象から大きくかけ離れたイメージは沸いてこない。
にしたって、


「…あのー、頭の中は空っぽに見えますけど」
「そうかもしれんが、人は見掛けによらないのは分かってるだろ」


今更何を言ってるんだと言わんばかりの課長の顔に、返す言葉が無い。
確かにその通りだ。誠実そうに見えて不倫をしてたり、真面目そうに見えてお金を着服してたり、気が弱そうに見えて部下へ暴力を振るう様な輩を今まで散々見てきた。でも、私にプリンをくれたり、私の作ったカツサンドを食べた後の表情を無視してまで、出所の分からない話を何とか噛み砕けと言われても、無理がある。大して仕事をしていない課長にどう説明しても無駄だろうが、後ろ暗さが少しもないあの表情は、一朝一夕で身につくものではない。
課長に返事をしてデスクから離れても、それは同じだった。


そうして坂田銀時の事を調べ始めたが、遅刻はしょっちゅう、居眠りも日常茶飯事で、パチンコ屋でさぼっている所をたまに目撃されてもいる。それで一度、口頭で注意を受けていたが、仕事はそれなりにこなし、セクハラやパワハラを受けたという証言は中々得られなかった。ただ、金使いは荒いらしく、そうした証言は幾つも得られた。不透明なお金の動きがあるのだとすれば、それが要因だと考えられる。でもパチンコ代欲しさに危ない橋を渡る様な男には、まだ思えない。
期限は今から二週間後。調査書を作成する時間はお昼にしかとれない為、一人で会議室へ籠もって食べるようになってから既に一週間が経とうとしてるというのに、分かった事はたったそれだけ。これじゃあ調査とも呼べない。
流石に本人との面接を組むしかないかと考え始めたその日、帰りにあるファミレスの前を通ると、パフェを食べている坂田さんを見掛けた。ただし坂田さんの前では女の子が泣いている。坂田さんはやはりあれらの事をしたんだろうか。坂田さんの事を知ろうとすればする程、分からなくなっていく。
そこで、社内のあらゆる不祥事を暴く総務課の特命係にいる山崎に電話をかけて、居酒屋で飲みながら話を聞いたのだが、あの人は多分無実だよ、と訳知り顔で話した山崎の言葉には何の答えも見い出せなかった。ただ、その言葉は、頭の中で錨の様に重く沈んだ。

万事休す。溜め息も枯れかけた、そんな時、動きがあった。周囲への面接を進めていると、ある女性が目の前に現れた。坂田さんとファミレスで一緒にいた、あの女性だ。その彼女から、坂田さんからセクハラをされている、と申告を受けたのだ。下品な発言は多いようだが目くじらを立てて怒る様な人はいなかったのに、その彼女は、ホテルに連れ込まれそうになった、と怯えながら涙まで流した。その上、取引先の零細企業の娘でもある彼女は、キックバックも要求されたと言う。
山崎の言葉が頭の中で繰り返された。あれは間違いだった。それを鵜呑みにしかけた私の頭の中も間違ってたとしか言えない。坂田さんに裏切られたという思いと怒り、見抜けなかった自分への甘さが喉の奥でぶつかり、口調がいささかきつくなる。


「どうして黙ってたんです」
「家の事が心配だったし、就業中に呼び出された事もあったので、ちゃんと断らなかった私にも責任があると思って」
「就業中?」
「はい。二週間前の金曜日に同僚とランチ中に呼び出されたんです。途中で席を立ったので、同席してた皆も覚えてると思います」


二週間前といえば、坂田さんと話すようになっていた時期だ。たった二週間前だというのに、様々な感情が混じり合って澱の様になり、随分と昔に思える。でもその女性社員の言葉により、濁っていた視界が一気に晴れていった。


その一週間後の期日当日。坂田さんに関する調査書を読み終えた課長は、いつからこんな甘い事を書く様になったんだ、と唾を吐く様にして呟いた。それもそのはず、パワハラとセクハラの件に関して言えば白、キックバックの件は証拠不十分で不明、と書いてあるからだ。
セクハラを受けたと申告をされたが、彼女の言う三週間前の金曜日のお昼に坂田さんとあの女性が会う事はあり得ない。何故なら坂田さんはあの公園で私と一緒だったからだ。それを彼女に伝えると、日付を変えて間違いを正そうとしていたが明らかに挙動がおかしいし、キックバックについても証拠になるものは出せないと言う。嘘を嘘で固めようとする、そんな印象だった。
とはいえ、提出の期日まで私が個人的な感情を捨てきれなかったのも事実で、私を脳なし扱いする課長へ反論する余地はなく、結局、坂田さんの調査は私の手から離れる事になった。ついでに私の処遇も検討されるに違いない。
でも後悔はなかった。これで終わらせるつもりはないし、出世の為に手段を選ばないような人間になりたくない。私は、自分を裏切らない仕事をしたい。


次の日に久しぶりにあの公園へ行ってみると、そこには坂田さんもいた。三週間前と変わらず、白けた表情でベンチに座っていたが、今は知らない人に見える。隣に座ると、坂田さんは何時ものように端へ寄った。近くもなく、遠くもなく、ごく平凡な距離だ。


「俺の事嗅ぎまわってたみてぇだけど、何か出た?」
「…何だ、知ってたんだ。でもよく分かんなかった。だからもう私は担当しない事になったから」


雨が気になるフリをして薄い雲がかかった空を見上げた。知ってるようで知らない人、そんな人の隣にいて間が持つ筈がない。しかも色々聞きたい事はあるだろうに話しかけてこない坂田さんの隣は相変わらず居心地がよくて、それが却って申し訳なく思えた。益々口が堅くなる。
そんな私に、坂田さんはプリンを一個寄越した。どうせまたデザート持ってきてねぇんだろ、と三週間ぶりに目にする私のお弁当の中身を言い当てたが、これはたまたま買ってあったんだろうか。それとも…。
聞こうとすると、坂田さんと知り合いであるホームレス風情の男が走ってやって来た。それを見た坂田さんの顔が一気に冷たいものへと変わり、直ぐにベンチから立つと、突然走りだした。
ただ事ではない雰囲気だったので、私もその後を追う。お昼が潰れてもいい。お弁当を食べられなくても構いやしない。私は坂田さんの事を、少しでもいい、知りたい。
ホームレス風情の男も走りながら追いかけて来て、あるホテルと部屋の番号を叫ぶと、坂田さんは言われたホテルへ到着するなり早々にエレベーターへ乗り込んで、部屋のインターフォンを鳴らした。すると中から女性が出てきた。ただし、この女性には見覚えがある。坂田さんからセクハラを受けたと告発した女性だ。しかも部屋の奥にいて顔を覗かせた男の方にも見覚えがある。


「部長、こんな所で何の面接ですか?」



関連会社である信用調査会社に出向。自分の権限を利用し、取引先の娘でもある子会社の女性社員を脅して不適切な関係を持った上、女性から相談を受けていた坂田さんを貶めようとした人事部長の目論見を暴いた私は、そう辞令を通達された。目を買われたとはいえ、役職についたわけではない為、横滑りの人事異動になる。
部長は勿論懲戒処分、私に坂田さんの調査を命じた課長は、同じ派閥である部長からの命令を断れなかったようだが、それは断じて許されるものではなく、課長にも処分が下された。二人とも出生コースに再び乗る事はないとみていい。
脅されていた女性社員と彼女を助けようとした坂田さんは、お咎めなし、という事で落ち着いた。

異動先へ挨拶へ行くと、社内は男性がほとんどで、殺伐とした空気だった。仕事の内容や業績を考えれば、かなり忙しいのは分かる。調査を仕事にしている会社の社員だけあって、尾ひれのついた私の噂をまともに信じてる人もいないだろう。それを抜きにしたって、結婚までの腰かけ、政治的な駆け引きの出来ない堅物女、くらいには思われているらしい、値踏みする様な視線を投げかけられるだけで誰も話しかけてこない。
しばらくの間はまた一人でお弁当を食べなきゃならないようだ。いや、ずっとかもしれない。人事部ではなくなって、やっと気の合う人とお昼を一緒に過ごせるかもしれないと思ってたのに、自分を裏切らなかった結果がこれか。
異動一日目でも変わらない周りの雰囲気の中で、お弁当の入ったバックとまだ片付いていない自分のデスクとを見比べると、突然、肩を叩かれた。そこで重い目を転じると、今となってはすっかり見慣れた銀髪頭がある。部署は違えど、この会社で働いている、坂田さんだ。


「弁当作って来たんだろ?」
「あ、うん」
「だったら早く支度しろよ。時間ねぇぞ」
「何…え?」
「外で食うだろ。歓迎の証に、デザートは俺が奢ってやるよ」


坂田さんは私の目の前でコンビニの袋を掲げて見せた。どうせコンビニの安いプリンだろうに。それで私を釣ろうなんて甘い。だからプリンは結構です。
それでも近い距離で満足気に笑う坂田さん。これからの時間は楽しいものになると予感し、急に足が軽くなったのを感じた私も、恐らく似た様な表情をしてるに違いない。



二つの始まり


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