理科教師と俺と猫。夏休み中のクソ熱い校舎の外にいるこの二人と一匹を見ても、万斉は表情を変えず「場所を移そう」とだけ事務的に言い、背中を翻した。午後が始まるまでまだ少し時間はあるが、僅かな時間を潰す為の下らない雑談をしに来たわけではないらしい。
そこで女と猫を残し、放課後に鬼兵隊の連中が集まる部屋へ行くと、黙っていた男がようやく口を開いた。そいつによると、そいつは俺につきまとってた女に俺を撃った男を紹介した張本人である事、俺を撃った男はやくざの下部組織で小間使いをしてるような下っ端で、拳銃は別の人間を撃つ為に上の人間から貰ってたものだったそうだ。
俺の読みは間違っていなかった。暴対法(暴力団対策法)が施行されてから、やくざは安易な暴力行為を避ける傾向にある。俺らのようなガキが暴れまわっていられたのは、そうした背景があったからだが、俺を撃った馬鹿は腐ってもやくざの端くれ、勝手に拳銃を使った事もあり、十分な責任を取らされるだろう。
そして俺につきまとってた女は、男と一緒に街外れにあるラブホテルだった廃墟で組の監視下に置かれているが、女の親は女を捜す気がないらしい。…身に覚えのある話だ。だがそれも自業自得だ。だから俺は自分で何とかしてきた。


「それで俺に何の用だ」
「厚かましい話だが、鬼兵隊で女だけでも奪って来て欲しいんだそうだ」


万斉は男がここへ来た理由を代弁したが、俺は直ぐに嘘だと分かった。この男が心配してるのは女の様子ではない。警察でもやくざでも、自分に何らかの手が及ぶのを恐れているだけだ。こんな中途半端な覚悟で俺達に叶うわけがない。
目の前で堂々とアホ面を晒している男に呆れはしたが、こういう男と付き合う女も結局はクズだったという事だ。そんな女の為に俺達が動かなければならない理由はない。義理もない。しかもまた騒ぎを起こせば、今度こそ俺は退学になり、銀八のお節介も無駄で終わる。目の前の男は俺が撃たれた事に負い目でも感じてるのか、高校三年である俺の事情を察してるフリでもしてるのか、安そうなプライドを全面に押し出してまで、力を貸してくれとは言ってこなかった。
俺に突っかかって来る連中をつまらないと思うのはこの程度だからだ。どいつもこいつも、あっさりと引き下がる。食いついてくる骨のある奴はそういない。
と、ここで、先程まで隣にいた女の顔をもう思い出したどころか、あの女の事を自然と考えてしまってた事は今までにも何度もあったと気付き、言葉にならないような息を吐いた。


「で、晋助、どうする」
「さあな。女がどうなろうと俺にはどうでもいい話だ」




学校を適当に終わらせ、陽が大分傾いた夕方。俺は街外れへと向かった。俺に付きまとってた女に用はないが、俺を撃った男には借りがある。理由はただそれだけだ。だから一人で向かった。
廃墟へ着くと、建物の外壁はほとんど崩れ、草は生え放題、看板も割れていたが、薄暗い入口には黒塗りの車が三台とバンが二台停まっていて、男も数人程立っている。監禁場所はここか。ここでしょっちゅう喧嘩をした俺にとっては、中がどういう構造になってるのか知ってるので、都合がいい。
入口にいた男達は元々話の分かる連中だったようで、俺が入ろうとすると、すんなり通してくれた。だが中にいた十人程の男達はあまり融通が利かないようで、特に、高級なスーツを着ている目付きの鋭い男は、入口で屯していたチンピラ風情の連中とは明らかに雰囲気が違う。やけに物々しいと思ったら、俺は上の幹部が来てたところへ乗り込んだ様だ。
その男の奥には俺を撃った男が床に転がってたが、顔の原型を留めてないまま、呻き声を上げている。それはまだいい、俺に付きまとってた女は、半裸のまま、ぴくりとも動かない。…予想はしてたが、胸糞が悪い。だが、俺にも覚えがある。どうこう言える資格はない。
いきなり乱入した上に「二人を解放しろ」と言い放った俺へ、一人の男が俺に殴りかかってきた。だが雑魚は雑魚、一瞬で片をつけるとその後の男達も皆それに倣う。やはり手応えがない。目当ての男もかかってこない。やくざとはいえ、暴対法にびびっているこの辺の奴らは、やはりこんなもんか。
そう思っていると、いきなり膝の裏を殴られた。思わず床に膝を着けると、今度は後頭部に熱い衝撃を受ける。誰がやったのかを見ると、俺にまた鉄パイプを振り下ろしてきたのは、あの目つきの鋭い男だった。その一撃は何とか避けたが、体に力が入らずに、頭まで床に着ける。そこを狙われるのは当然だ。次々と殴られる。蹴られる。歯を食いしばっても、床に広がる血がどこから流れているものなのか、分からなくなっていく。あの男を絶対に殺す。血の味がする口の中でそれだけを繰り返して何とか意識を保とうとするが、意識が勝手に薄れていく。
すると、どこからか、知った声が聞えてきた。


「ここはもうホテルじゃねえから、女だけ残して、てめぇはとっとと帰れ。おい、姉ちゃん、そこの兄ちゃんより楽しませてやるからよ」
「…銀八。お前、短小の挙句、童貞呼ばわりされてるぞ」
「誰もそんな事言ってねぇだろうが!くそっ、帰ってから覚えてろよ!てめーの体に嫌って程思い知らせてやる」


そう叫んだ銀八は、銀八に殴りかかろうとした男をぶん殴り、女は持っていた瓶から液体のようなものを少しだけ床に捲いた。その液体は無色透明で無臭、意識がはっきりしてないせいもあるのか、水と見分けがつかない。だが女が火の点いたマッチ棒を液体の上に投げ入れると、黄色い炎が燃え上がった。ガソリンと同じように発火する物のようだが、ガソリンとは違って服の裾にかかっても分かりにくいだろう。暗がりのこの部屋の中じゃ尚更だ、何てタチの悪い脅しだ。だが女は涼しい顔でペットボトルを取り出し、次々にその中身を床へぶち撒けるので、状況を察した男達までもが尻尾を巻いて逃げていった。
…女は本物だ。本当にイカれてやがる。
すっかり弱々しい姿になっていた俺に付きまとってた女と、俺が襲った直後のこの女とを、勝手に重ね合わせていた俺は、笑いが込み上げてきそうになりながらも、やっと意識を手放した。



頬を殴られた事で、生まれたばかりの痛みと衝撃が頭を揺らした。驚いて目を開けると、俺の顔を覗きこんでたのか、女の顔が目の前にある。だが俺は驚きの声すら上げられなかった。女の顔は、怒りと呆れに蝕まれているかのような、初めて見る表情だったからだ。それでも女は何事もなかったかのように口元を上げたが、目が笑ってない。
そして女は動けないでいる俺の体を壁に預けると、ここへ来た経緯を勝手に話し始めた。それによると、学校が終わった夕方、昼間にやって来た青い顔をした男、つまり、俺に助けを求めに来たあの馬鹿が、俺にもう一度会う為に校門に立ってたのを女が見つけて事情を聞き出し、銀八と一緒にここへ来たという。その銀八はというと、俺を撃った男を引き取ってもらうようやくざ共に言って聞かせ、女を病院へ運ぶ為にバイクで出てったそうだ。それと女が捲いたペットボトルの中身は水だったそうで、何かを思い出したのか、女は苦笑いを浮かべた。
喋ったあの男も男だが、こいつらもこいつらだ。


「今、何で殴った」
「いいだろ。怪我の一つや二つ増えたところで。益々さまになってるぞ」
「じゃあ何で来た」
「何でって…。大事な人を迎えに来るのに理由はいるのか?」


俺が初めて警察の世話になったのは、小学生の時。脅迫や万引き、カツアゲを繰り返していた一つ上のクズ共が、ある日、捨て犬を殺しかけてたところを見てしまい、そいつらを病院送りにした事がきっかけだった。だが、警察も教師も周りの大人は誰一人として俺の話を聞こうとはせず、俺の方を手がつけられない問題児のように扱った。それどころかクズ共へ同情の眼が集まった。俺の親ですら俺の話を聞かず、此方が一方的に悪い、と金で解決した。だから俺は親に迎えを頼まなくなった。
そうした事があって、銀八以外の大人に迎えに来てもらった事が無い俺には、女が口にした疑問に対して、返す言葉が見つからない。女にとっては当たり前でも、俺にとっては普通ではないし、理解も出来ない。そうしたものを押し付けられても困る。
だからといって、ハンカチで俺の顔を拭く女の手を払いのける事は出来なかった。今現在動けずにいる俺が意識を保っていられるのは、この女がいるからだ。冷たくなっている手足が女の体温によって温められ、血の気が戻るような感覚すらある。
しばらく経ってやっと力が入るようになると、どこまで力が戻ったのか確かめるように、女の体を抱き寄せた。そうすると自然と顔の距離が縮まったが、女は驚いたように目を大きくしただけで、止めろとは言わない。拒みもしない。
それはやはり女が壊れてるせいだからかもしれないが、生徒を思うが為にただ黙って受け入れるのが教師の勤めだと本当に思ってるんだとしたら、俺にとってはいい迷惑だ。俺はあくまで人間を相手にしてるつもりだが、俺の相手は人形で十分だってのか?冗談じゃねぇ。ただ、俺を大事な人間だと言ったのと同じ口で、女や教師を理由に拒んで欲しくもなかった。ガキに興味はない、生徒だから、そんな逃げ口だと俺自身はどうでもいいと暗に仄めかされてるようなものだ。退学を覚悟してた数日前は何者にもなれない俺を持て余してたが、俺以外の何かでそうして片付けられるくらいなら、立場や肩書なんざどうでもいい。少なくとも、この女の前では。


「高す…」
「黙ってろ」


拒まれる事を望んでいながら、恐れてもいた俺は、再び開きかけた女の唇を、ゆっくりと追いかけた。



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