女の話をどう受けとめればいいのか分からない上に、銀八もいる手前、俺は女の過去をほじくり返す様な言葉は返さなかった。二人がいる前で下手な事を言って、人生経験の少なさや人間としての底の浅さを露呈するより、無言を貫く方が遥かにマシだ、そう思ったからだ。

そして翌日、女は学校を休んだ。
銀八とは放課後に話そうと思えば話せたが、銀八は銀八で昨日の事については一切触れないし、俺は俺で、女が学校を休んだ理由、あの話を知ってたかどうか等、あの女に興味があるかのように思われたくないので、一切話を振らなかった。
だが、女は二、三日経っても学校に来なかった。
猫を放ったらかして平気な人間だとは考えにくいが、だからこそ、学校を休む理由に思い当たらない。他の教師は体調不良と口を揃えて言ってたが、目でみて確認してないものを鵜呑みにするような、その辺の馬鹿とは違う。
他の奴らからパンや牛乳を貰っているくせに、俺にわざわざ餌をねだりにくる猫も、心なしか、元気が無い。
…いや、色々考え過ぎだな。

結局、金曜日になっても女は学校へ来なかった。放課後に銀八と別れて理科室の前を通っても、教室に長い影を作る人間はそこにいない。
そのまま鬼兵隊の連中が集まっている場所へ行ってみると、いつもは煩い来島がやけに疲れた顔をしている。聞くと、風邪を引いて休んでいる女の代わりに校長が理科の授業を担当したらしいが、授業の内容が相当酷かったそうだ。


「課題のプリントは終わらせられたんすけど、来週もあの校長の授業かと思うと今から憂鬱で…。どうせならあの校長が風邪引きゃよかったのに」
「あの校長は風邪を引くようなたまじゃねぇと思うがな」
「そうなんすよね。それなんで、プリントの採点をお願いする為に今から先生の家に届けに行くんすけど、早く来てくれって直談判しようと思って」


来島の側にはプリントが入った袋が置いてあった。しかも来島が前に言ってた通り、あの女が生徒から慕われているというのは本当の様で、購買で買ったらしいヨーグルトとお菓子が入ってある。
その紙袋を持って駅へ行くという来島と帰り道の途中で別れる際に、わざとぶつかってきた奴にいきなり殴りかかられた。相手はただ威勢がいいだけで大して強くなく、俺らがほとんど殴っただけで喧嘩ともいえないものだったが、珍しく、万斉の顔が硬い。
その万斉が伸びている奴を無理矢理叩き起こすと、男は何故か狂ったように笑い始めた。痛めつけた箇所を革靴で踏みながら理由を聞くと、どこかのバカが鬼兵隊を潰す為に暴力団員からも人を集めていて、俺らがボコボコにされるのを想像したら笑えて仕方ない、んだそうだ。雑魚が束になったところで変わらないんだがな。
だが、その話を聞いた万斉は、そうは思わなかったようだ。来島へ断ってから紙袋を持つと、それをいきなり俺に寄越した。


「晋助が今から届けに行ってはどうだ」
「何で俺が」
「そうっすよ、万斉先輩。何も晋助様が行かなくても」
「理由は晋助が一番良く分かってる筈。それに余計な心配事はない方がいい」


そう呟いた万斉の声は、いつになくクソ真面目だった。



気は進まなかったが、来島が取って付けたように用事があるのを思い出したと言い出し、万斉は俺に紙袋を預けるとさっさと鬼兵隊の連中をひきつれてどこかへ行ってしまったので、結局、紙袋は俺の手元に残った。だが、俺一人で行かなければならない理由はないし、俺でなければならない理由はない。それに、面倒だ。
そこで、ゲーセンに行ったり、コンビニで時間を潰したりして、この紙袋をどうにか出来ないか考えた。だが、下手に処分も出来ない。来島の疲れた顔を忘れるわけにはいかないし、袋の中に入っている食い物を無視するわけにもいかない。
そうしているうちに時間は流れ、来島に教えられた住所を頼りに女の家を探し、それらしい建物に着く頃になると、陽はもう大分傾いてしまっていた。マンションは三階建ての普通の建物で、銀座で働く女が住む建物とは考えにくいが、教師の給料を基準に考えれば、こんなもんだろう。
三階にある部屋の前へ行き、ドアの側のチャイムを押すと、しばらく経ってから女が出てきた。が、髪はぼさぼさ、眼鏡を外してある目の下には大きめのマスクをしてあり、額には冷えピタが貼ってある。いかにも病人風情の格好だった。それなのに女は「あ、高杉だ」といつもののんびりした声で俺の名を呼び、俺を少し唖然とさせた。本当に風邪だったらしい事に安心はしたが、色んな意味で女の事を気にかけてた俺に、段々腹が立ってきた。何で俺はこの女に。
見舞いの言葉もそこそこに、来島から預かった紙袋を渡すだけ渡して帰ろうとすると、女はいつもの適当な雰囲気で俺を呼び止めた。飯に付き合ってくれと言う。


「家に入れてやりたいのは山々だが、これでも一応教育者だし、来てもらった礼に何かしたい。近くの喫茶店で奢らせてくれないか」
「…飯なら一人で食えんだろ。俺はこれでも忙しい」
「十五分位ならいいだろ」


冷蔵庫に何もないと付け加えられた事もあって、それならと渋々頷き、教えられた喫茶店へ直ぐに向かうと、店はマンションを出てから二、三分程歩いた所へあった。側にはファミレスもあるし、ファーストフードの店だってある。それなのに女がわざわざここを指定した理由は、ここへよく来るからだろう。
女の言いつけどおりに来た事を早速後悔しながら、「ハンバーグ定食を頼んでおいてくれ」と女に頼まれたからだと心の中で言い訳を繰り返しつつ店の中へ入ると、夕方だというのに客が何人もいた。だが流石に俺の様に学生服を着た人間はいない。まだ若い店の主人と思しき男は、俺の姿を見ると、人好きのする笑顔を見せた。
そのせいもあってか、居心地の悪さをあまり感じないまま、その男にハンバーグ定食とコーヒーを頼んでから、適当に席を選んで座って、待つ事、五、六分。適当に髪をまとめた女がようやくやって来た。顔を洗ってきたらしいが、その顔には眉毛を書いてあるだけで、化粧気は少しもない。ひょっとして気を使ったのは腕を隠す為に長袖を着てきた事くらいだろう、急いで家を出たようだ。
女が席に座ると、丁度いいタイミングでコーヒーが来た。頼んだのはオリジナルブレンドだが、どこかで嗅いだ香りだ、随分と香りがいい。まさかと思って一口飲むと、女が理科室で淹れたあのコーヒーだった。やはり美味い。女が俺の顔を見て笑っていなけりゃもっと美味いと思えるんだろうに。
今の時点で、十五分の残り時間はもう僅か。あと一、二分しかない。大人しく女の飯に付き合う気はないが、このコーヒーをガブガブ飲むのは惜しい。仕方ねぇ、あと十分だけいてやる。

コーヒーを飲みながら、女とどうでもいい話をしていると、女は思い出したように、家に電話をしろ、と言ってきた。家族へ心配をかけさせない為だろうが、中学生じゃあるまいし。それに家に電話をしたってこの時間は誰もいない。二人とも俺には金さえ与えればいいと思っている連中だからだ。飯を一緒に食ったのなんて、いつ以来か。誰がそれを馬鹿正直に言うか。
だが女はそれ以上突っ込んで聞いてはこなかった。その代りに、何故か自分の事を喋り出した。


「母の家はいわゆる旧家と呼ばれる家だそうなんだが、母自身は奔放な性格で、ボランティアをしたり、大学を休学して海外を放浪したりしてたらしい。そのせいで母は母方の祖父母から勘当されたらしく、父はそんな母と結婚したので、頭の固い父方の祖父と折り合いが悪かったそうだ。まあ、元々、両親はあまり日本にいなかったそうだから、実際は折り合いが悪いというわけではなかったかもしれんが」
「………」
「二人が事故で亡くなったのも海外でな、私を育ててくれた父方の祖父母の元へ外務省から連絡があったそうだ。私は事故に遭わずに済んだので、引き取る人間も必要だったしな。勿論、母方の祖父母にも連絡はいった筈だが、葬式には祖父母どころか親戚すら来なかったらしい。だから私は両親の事も母方の祖父母の事もほとんど知らない」
「あんたの頑固なところは父方の家系だろうな」
「そうだな。奔放な部分はきっと母譲りだ」


女が校長の頭を血だらけにしたのを思い出して、嫌味を込めて言ったつもりだったが、女は満更でもなさそうに笑った。だが、いつもの何とも言えない笑顔ではなく、少しはにかんだような照れ笑いに近い。
俺は、今までにも度々この女へかける言葉を失う事があったが、今もそうだ。嫌味を嫌味と捉えず、二度と会えない両親の話を笑顔でする女に対し、話題にもしたくない両親がいる俺は、一体、何と言えばいい。俺とは対極にあるこの女を羨んだところで、それは自分を貶めるだけだ。
それに、俺もこの女も、望むものは手に入れられていない。二人とも幸せで、二人とも不幸でもある。似た者同士、とは言いたくないが、何を言っても自分に返って来る事は、俺でも分かる。


「…私に怪我をさせた奴は悪い人間じゃないし、母方の祖父母もきっと悪い人間じゃないと思う。それに私は気ままな母にも似てるようだから、もう昔の事は気にしてない。ただ、腕の事を関係のないお前に話したのは、申し訳なかったと思ってる。…本当に、すまない」
「俺があんたの事を気にすると思ったか?」
「いいや。銀八もそうだが、高杉もあいつも、他人に同情はしないだろ。ただつまらない話を聞かせた、それだけだ」


表情にまた一瞬影を落とした後、女は外の風景をぼんやりと眺めた。俺と銀八を同じ種類の人間だと捉えているその腐った眼には、一体何が見えてるってんだ。
そこでようやくハンバーグ定食が運ばれてきて、女はハンバーグにナイフを入れた。病み上がりの人間にしちゃ消化の悪いもんを食いやがる。もう食えるのか聞くと、女は余裕だと答えた。月曜日には学校へも行くそうだ。
これで、あの猫が元気を取り戻す日も近い。もう来島も校長の授業を受けずに済む。俺がこの女の事を気にする事も、きっと、もうない。俺はこれでも忙しいからな。

だが、俺も女も、望むものを手に入れたためしが無い。
こんな願いは、叶うわけが無かった。


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