校長に屑呼ばわりされた俺が、その校長の頭を負傷させた理科教師を連れ去った翌日。


「…ざまぁねぇな」
「あ?高杉、今、何つった?」


案の定、俺は朝一で校長室へ呼び出され、箸にも棒にも掛からないどうでもいい説教の様な物をだらだらと垂れ流された。これだけでも反吐が出そうなのに、同じように呼び出されて、俺への生徒指導がなっていないととばっちりを受けた銀八の監視下に一ヶ月間強制的に置かれる事になった上、受験をするしないに関わらず、夏休み中の補講に必ず出るよう言い渡された。処分のようなもんだろう。
校長室を出ると、銀八は俺の頭を派手に殴り、「だから関わるなって言っただろうがっ」とこめかみに青筋を立てて文句を言った。だが、殴られたのはそれきり。文句は続いたが、俺を屑呼ばわりした校長の擁護は一切しなかった。


「あの女はどうした」
「あいつならとっくに説教されたっつーの。半分も聞いちゃいねぇだろうけど」
「だろうな」


女がヒステリーにも近い校長の文句を適当な返事で受け流している様がありありと目に浮かぶ。いや、あの女の事だ、出血した部分をじーっと眺めてたっておかしくない。声を低くして笑うと、隣にいる銀八は呆れたように溜め息を吐いた。

昨日の事で、日中はいつも以上に注目された。「また高杉が」「あいつならやりそうだ」「何それ、ありえない」そんな言葉と共に学校の至る所で俺とあの女の話をされてたようだったが、事実にどれだけ尾ひれがついてるか分かったもんじゃない。それを自分から正す気はなかったが、面と向かって何があったのかを聞いて来たのはクラスの連中にもいなかった。というより、あいつらは他人の事なんざどうでもいいだけだろう。益々俺の事を目の敵にしたらしい沖田を除いて。
銀八の監視下に置かれるといっても、授業に出るのを義務付けられた事と、仏頂面の銀八の前で各教科の教師共から出された課題を放課後にやればいいだけだったので、鬼兵隊の連中とは下校時と週末に会って話を聞けた。だから周囲は更に騒がしくなったが、学校生活において特に大きな変化はなかったと言っていい。



そんなある日の放課後。ろくに課題をこなさず外ばかりを見ていた俺の目の前で、銀八が甘い飲み物でも買ってくると欠伸交じりに呟き、教室から出て行った。だが、中々帰って来ない。どうせ銀八は俺のお守りを片手間でやってるんだろうし、今まで続いてた方が不思議なくらいだ。面倒臭くなってどこかへ行ったんだろう。
そこで、鬼兵隊の連中がいるあの部屋へ久しぶりに寄ろうと思い立って鞄を持ち、理科室の前を通りかかると、そこに銀八がいた。甘党馬鹿の希望通りにいちご牛乳をちゃんと買えたようだが、飲んだ形跡はなく、サボっている様子でもなく、表情も硬い。壁に寄りかかったまま動こうともしない。
…一体何があった。不思議に思って理科室を覗くと、中にはあの女がいた。だが他に、男もいる。見た事のない顔だ。しかもあの女の周りにしちゃ重い質量で満たされている空気なので、前の見合い相手かと思ったが、どうやら違うらしい。


「いい加減、ここを辞めて、うちの研究所に来てくれよ。そうすればお前の研究も続けられんだろ」


男のその一言に、夕焼けで赤くなっていた廊下の風景が一瞬でモノトーンになり、俺の周りの全ての音が消えた。それは見合い相手の非難ではなく、知り合いからの引き抜きの誘いだった。懇願めいた声は男の真剣さを伺わせたし、沖田の姉の為だとは自分の口では言わないが、今も一人で黙々と何かの実験をしている女にとっては悪い話ではない筈だ。教師は向いていないと言った女の話が本心だとしたら、受けても良さそうなものだが。
ところが女は「その内にと言ってるだろ」と受け流した。興味があるにしちゃ素っ気無い。男は男で、どこかの研究所で拾ってくれるなら自分が教鞭をとるからいつ辞めてもいい、女が成果を上げれば学校の宣伝にもなると言われたんだろ、と校長に言われたらしい事を引き合いに更に粘ったが、女は適当に相槌を打つばかりで頷かない。あらゆる言葉を右から左へ受け流していた。
暖簾に腕押し。糠に釘。全く手応えの無い女を相手に溜め息を吐いた男の気持ちも分からなくはない。


「…まさか、お前がここを辞めるのを渋るのは、あの銀髪と付き合ってるからか?」
「馬鹿な事を言うな。私が誰かに恋をすると思うか?」


銀髪とは銀八の事だろう、この学校でそんなふざけた色の頭の野郎は一人しかいない。この男にまでそう思われているとはな。その銀八はというと、じっと前を見据えたままでいる。だが不気味な沈黙を保ったまま、どこか不機嫌そうな横顔だった。誰にでも女との仲を疑われているからか、女に否定された事にムカついているからかは判断し辛いが、俺の勘だと後者だ。普通なら誤解されて嫌な女に纏わりついたりしない。
諦めたのか、女の問いに窮したのか、男はとうとう残念そうに、とにかく考えておいてくれ、と念を押して理科室から出てきた。勿論、男が廊下にいた俺達を見止めたのは言うまでもなく、常識のある大人らしく銀八にだけ少し頭を下げた。
その男の姿が見えなくなる前に、銀八は頭を掻きながら、俺にいつものやる気のない目を向けた。ここから離れるぞ、という合図のつもりらしい。
言われなくてもさっさとここから立ち去って、俺は鬼兵隊の元へ行くつもりだ。だが、二人でその場を離れるより、女の声が飛んで来た方が先だった。


「ああ、何だ、お前達か。どうしたんだ、二人揃って」
「たまたま前通っただけだ。なあ、高杉」
「嘘を言え。どうせ聞いてたんだろう。まあ、いい。何か飲んでくか?」
「いや、これでも暇じゃねぇんだ。行くぞ、高杉」
「………」
「おい、聞こえてんのか。高杉」
「…聞えてる。だが気になってな。何で断ったんだ?教師を辞めるいい機会だったじゃねぇか」
「高杉」


俺の名前を呼んだ銀八の声が、低く強くなった。明らかに怒気が込められている、俺を咎めている。ただしそこには余裕もあった。理由を知っているからか、他人は他人だと理解している大人だからか、女がその内に口を開くと思っているのかは知らないが、銀八の物分かりのいい態度はやけに俺を苛立たせた。
女はというと、表情を全く変えずに俺へ近くに来るよう言い、小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して一口飲んだ。そして手元にあったビーカーへ残りの水を入れ、劇薬を置いてある棚の鍵を開け、中から何かの結晶を取り出し、それをビーカーの水の中へ入れた。ビーカーの中は結晶を入れて混ぜても無色透明で、外見は水と変わりがない。
結晶がきれいさっぱり溶けると、女はおやつにとっておいたと言いながら、冷蔵庫から今度は魚肉ソーセージを取り出し、薄い皮をむいてその溶液の中へ入れた。すると、ビーカーに入れられたソーセージがあっと言う間に溶けて消えた。もう跡形もない。


「今水に入れた結晶は水酸化ナトリウムだ。苛性ソーダともいう。この水溶液は今は強アルカリ性で、プラスチックや合皮製品には溶けないが、肌や衣服は溶かす。今見たようにな。勿論濃度によるが、間違っても人にかけたりしてはいけない。かけたらこうなる」


女はそう言って白衣を脱ぎ、長袖の腕をめくって見せた。そこに何があるのかといえば、あの火傷のような痕だ。顔を庇う為だったのか、その範囲は二の腕の上にまで広がっている。銀八は見た事があるのか、全く動揺する素振りが無い。
だからといって、俺の口から何があったのか、それがどうして就職をしない理由になるのか、聞くにも聞けない。他人の過去に軽々しく踏み込んでしまった後悔と、自分の浅はかさにどうしようもなく腹が立ったからだ。興味本位で首をつっこんで逃げるなんざどうしようもなくガキだな、俺は。
だが女は聞かなければならない責任を放棄しようとした俺に対し、言葉を続けた。それによると、友達だと思っていた大学院の仲間にホステスのバイト勤めを責められ、たまたま手元にあったその水溶液をかけられたんだそうだ。それから人と深く関わるのを面倒臭いと思い始め、そうした騒ぎがあった為に大学院も辞めたらしい。


「その男は、学費を稼ぐ手段だからと時給のいいホステスのバイトに理解を示していたし、むしろ励ましてくれてたんだが、実は私の事を好きだったようでな、前日に客と夕飯を食べてた私を見た上に、私は私で、こう、ちゃらんぽらんだろ?見た目は水と変わらないとはいえ、実験中の物を投げつけるだなんて言語道断だと知りつつ、手元にあったその溶液を私に投げた。研究も大分煮詰まってて相当参っていたようだったから、その鬱憤も溜まってたんだろう」


腕の火傷を隠す為にずっと白衣と長袖を着ている理由も、目的があったのに大学院を辞めた理由も、両親がいない事より辛かった事があったらしい事も、これで何もかもが結びついた。
だが、すっきりしない。むしろ、漬物石のような物が心臓にのっかっているかのような息苦しさに耐えなければならなくなった。


「その男は何度も私の元へ詫びに来たし、ご両親には土下座までされたよ。今来た男はその男の友人でな、相談を受けてた上に、その場にもいたのに奴を止められなかった事に責任を感じて、ああして自分が働いている研究所へ誘いに来てくれる。だからこの腕の痕はどうだっていい。誰かを責めたって仕方ないし、手術をすればどうにでもなる」
「…教師なら職場の風通しはいいし、同じ生徒と接するのも三年しかねえ。日中の大概は他の教師とも接触しないで済むからから、ここなら人間関係が希薄で楽だからって事か」
「簡単に言えばそうだが、私が抱えるのはもっと根本的な問題だよ、高杉」
「根本的な問題?」
「ああ。その時から、私は答えの無い物にどう接したらいいのか分からなくなったんだよ」


女の淡々とした口調に反した重い告白の内容に、驚いていないと言えば嘘になる。だが、銀八が何も反応を示さない事の方に、それ以上の衝撃があった。銀八が知っていようが、知っていなかろうが、それは俺と銀八との決定的で絶望的な差に思えた。
この状況と気持ちに合う言葉がみつからない。教室の中の闇がさっきより濃さを増したように見える。そして女は腕を見ずに遠くを見ながら袖を直し、独り言のように呟いた。


「怖いんだよ、人の心が。誰かと深く関わる事が」


そうして女はまたあの笑顔を見せた。あらゆる感情をどこかに置き去りにしたかのような、抜け殻の様な表情を。だが女はそれきり口を噤んだ。
そうして逃げるだけなら簡単だなァ、ふとそう思った事を言うのは簡単だ。女の過去と、腕の痕と、深さも広さも分からない心の傷を無視して、その男と同じように自分の主張を無理矢理ぶつければいい。
だが、就職をするのか進学をするのか目先の未来の決断さえ先延ばしにしている今の俺に、それをどうのこうの言える筈などない。加えて、ガキである事に甘んじ、都合のいい時にはそれを拒む俺は、怖いものなど一切ないが、やっぱりガキでしかなく、この女以上に腰抜けだ。…ざまぁねぇな。


記憶の棘

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -