放課後。準備室で、とある女子生徒と話をしていた。話の内容は他愛のないものだったが、目の前にある小テストの採点はどうせ直ぐに終わるし、どうせ退屈だ。話に付き合わない理由がない。
そこまでは普段と変わらない放課後の光景だが、そこに数分前からおかしなものが紛れこんでいた。
何かというと、数ヶ月前にここの学校を卒業した俺のクラスの元教え子で、顧問でもある剣道部に所属していたとんでもない馬鹿女が、そんな俺達を見て何を勘違いしたんだか知らないが、開いているドアからたまに顔を出して、にやにやにやにや。声くらいかけりゃいいのに、そうしない。健全な放課後の光景に唯一の汚物だ、これは。
…しょうがねぇな。


「やーっと来たか、そこのブサイク」
「…言った事が事実だとしても、名誉棄損って成り立つんですよ、白髪天パ」
「お前と違って頭ん中はちゃんと詰まってるからいいんだよ。いいからさっさと入れ」
「………」


今にも呪詛の言葉が聞こえてきそうなドアの向こう側に対し、頭のいい女子生徒は、じゃあ、と行儀よく挨拶をすると、俺と馬鹿女に遠慮してか直ぐに部屋から出て行った。

この馬鹿女は、週に二回程、部の後輩の為にと剣道を教えに学校へ来ていて、部活が始まる前に一応俺の所へ挨拶をしに来るのが習慣になっていた。
ここに現れたのもそんな理由で、俺は今日がその日で何時頃に来るのかも知っていたので、女子生徒と一緒にいるところを見られても、特に動揺はない。というより、動揺するだけ無駄ってもんだ。頭のネジのほとんどがぶっ飛んでいる鈍感なこいつが、俺の動揺を見抜くわけがない。
だから俺はその馬鹿女を余裕を持って招き入れたのだが、そいつはというと、出て行った女子生徒の背中をにやけた面で見送ってから、ここへ来た目的の筈である挨拶を適当に済ませ、俺の顔を観察でもするかのようにまじまじと見た。


「…何」
「いやあ、先生って意外とモテるな、と思って」
「意外とってなんだよ、意外とって。いいからさっさと女友達紹介しろ」
「じゃあ、さっちゃん呼びます」
「何であいつだっ」
「だって、さっちゃんって可愛いじゃないですか。それに先生の事大好きだし。今の子もそうだけど、何で可愛い子にばっかりモテるんだろ。私がこの学校にいた時も先生のファンの子だって皆可愛かったですよ」
「…あの雌豚はともかく…、他の奴らの場合は、例え向こうに気があったとしても、思春期特有の熱病みてぇなもんだ。すぐに冷める」
「え。そんなもんなんですか?」


そう。思春期になると、男女問わず、大人ってもんに憧れる。相手が、同性だろうが、異性だろうが、年上の人間が格好良く見える。そしてある程度時間が経つと、勝手に冷める。「熱病」の意味そのものが分かっていないらしい顔のこいつには、それも理解出来ないようだ。
だがそれも当たり前か。こいつは剣道に全てを捧げてきたし、まともな恋愛をした事がないようなので、分からないのも無理はない。
ただ、目の前でアホ面を晒している女を、まともだとは思えない。…これで本当に大学生かよ。学校でちゃんとやれてんのか。
学校に来れば顔を突き合わせていた数か月前なら、学校でどう過ごしているのかも含めて、ある程度の事は知り得ていたが、今は違う。俺は普段のこいつを、よく知らない。心配だが、確かめる術も限られている。
だがこれでも、一応大学生らしい部分は出てきた。何かというと、化粧をするようになった。結果、益々人の目を引くようになった。
かといって、こいつは他人の目が未だに苦手なようだし、うちのクラスだった馬鹿共も一緒の筈なので、おかしな男が寄って来る事は滅多にないだろうが、それはそれで問題でもある。土方、沖田、山崎、学校は違うが高杉、この四人は特に注意が必要だ。どうせこいつらが脇を固めてんだろう。学内でも、休みの日でも。
どうせ俺はあくまで高校の教師だ。こいつの元担任だ。元教え子がどんな大学生活を送ってようが、知らなくていいし、知る必要もない。それに喜ばしい事だろ。たまに顔を合わせて、こうして話が出来るのは。
だが余裕が無い。ガキ共に嫉妬してやがんのか、俺は。
そんな自己嫌悪とそこからの逃避願望は、聞きたくもない事を、つい口走らせた。


「そういうお前はどうなんだよ。キスするような相手でも出来たのか?」
「誰が相手してくれるってんですか。私の様なブサイク相手に」
「…いや、いんだろ。大学生ともなりゃ物好きな奴が周りに一人くらいはよ」
「周りにいるのは、マヨネーズ臭かったり、Sの王子様だったり、地味だったり、メガネだったり、ゴリラだったり、眼帯だったり、あとたまに長谷川さんという名のホームレスに絡まれたりして、まともな人が一人としていないんですけど」
「あいつらはあいつらで、お前には言われたくねぇと思ってるだろうけどな」
「私はそれを白髪天パの先生から言われたくありませんよ。とにかく、…いいです、もう」


まだこの馬鹿女が在学中の頃、こいつが寝ているのをいい事に、俺はキスをしてしまった。それを覚えていられては、今もこうして話をしに来てもらえていないかもしれないが、あれはあれで結構勇気がいったんだがな。いい大人が高校生相手に、しかも教師が自分の生徒にするんだから、よ。
…考えているうちに、段々腹が立って来た。
人の気も知らないで、誰も相手にしてくれない、と脳天気に言うこいつもこいつだが、バレなくて助かった筈なのに喜べない自分勝手な俺自身にも。
煮え切らないそいつを前に、ふつふつとしたそれに飲まれるまで、時間はそうかからなかった。


「…まだだったら俺がやってやろうか」
「何をですか?」
「何がって…そりゃおめぇ、教え子の面倒みんのが教師ってもんだろ」
「…すみません、結構です。白髪天パが移るといけないんで」
「………」


確かに嫌かもしれねぇけど!何だよ、この状況で!俺が可哀想過ぎるだろ!
心が折れかけたが、俺は至って本気だ。椅子から立ち上がり、背の高さを利用して、馬鹿女をどんどん壁際へと追い込んだ。それでも、負けん気が強いのが、怖気づかないのは生まれつきなのか、鍛え上げた根性なのか、俺が言った事を冗談だと思っているのか、俺が舐めていた棒付きの飴を口から取り出しても、馬鹿は微動だにしない。
こうしたところは、こいつらしいといえばらしいし、変わって欲しくない。
だが俺には男としてのプライドってもんがある。ちんけだが、それはどうしても曲げられない。
更に顔を近づけると、俺の影は、とうとう目の前の相手の顔を覆った。
唇まで、あと三十センチ。


「…お前なぁ、いくらなんでも、ここまできたら目ェ瞑れって。それくらい分かんだろ」
「いや、あの、え、ちょっと…」
「うるせぇな。いいから、黙って瞑ってろ」


唇まで、あと十五センチ。
俺の方へ咄嗟に動いた右手を左手で壁に押し付けた。反対の手を出そうとしなかったのは、俺には何をしても無駄だと勘が働いたんだろうし、俺に手を出しかけたのは、俺が本気だと気付いたからだろう。こいつにしちゃ、正しい判断だ。
だが俺はというと、ここへきて、躊躇した。今になって、自分の言葉が心臓をちくちくと突いていた。
というのも、卒業してもこいつにとって俺はまだ先生であって、俺もまた格好つけてこいつ通りの先生であろうとした。それは正しかった筈だ。変に男女を意識をするより、そう思ってた方が俺にとっちゃ実に都合がいいし、世間一般じゃそれが当たり前の事でもある。
俺はそれを利用しようとしている。しかも自分勝手にこんな事をして、いいわけがない。これじゃ前と変わらねぇだろ。単なる俺のオナニーで終わる。今度こそこいつの記憶に残るかもしれないが、俺は自分のオナニーを好きな女に覚えられるなんて、真っ平御免だ。

…何やってんだ、俺。
唇まで、あと数センチ。俺が舐めていた飴の匂いが互いの鼻先にまで漂う距離。
あと少しだったが、持っていた棒付きの飴を馬鹿女の口の中へとつっこんだ。勿体ねぇが、仕方ねぇか。
目を開けたそいつは何が起きたのか分かっていないようで、口元をそのままにしている。目の前にあるその馬鹿面がいよいよ憎たらしい。思わず眉間に皺を寄せた。


「…ん?」
「お子様にはまだこれで充分だろ。んじゃ、先行ってるわ。…あ、そうだ。お前の髪が急に俺と同じのになったら、責任とってやるから。有難く思えよ」
「…責任?」


さっさとその場を退散して剣道場に向かった俺の背中に、すぐさま声が追いかけてきたが、後ろを振り向きもしなかった。
いつもは俺が追いかけてやってんだから、今日くらいはお前が俺を追いかけてさっさと来いよ。そうしたら、さっきの言葉の意味を教えてやらないでもない。
…教え子の面倒みんのが、教師ってもんだからな。



腐った大義名分


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