良くも悪くも忘れない女ってのがいる。
その女は、誰かれ構わず人を引き付ける愛嬌と容貌を持ち合わせていながら、銀行の営業職をしているせいか、その辺の男以上に度胸と知略に長けている半面、一旦火が付いたら手がつけられない程気性が荒かった。喧嘩はしょっちゅうだったし、シャツを切り裂かれた事や頬を平手で叩かれた事だって、一度や二度じゃない。
並の男じゃ手に余るだろうが、そんな女だから一緒にいてもまるで飽きず、支配欲も手伝ってか、出会って数週間と経たない内に惹かれ、付き合う内に、いつしか結婚まで考えるようになった。

だが結局は別れた。
はっきりとした原因は分からないが、取引先の専務の娘と俺との間に見合い話が持ち上がったのを女がどこかから聞き付けたようだった。女は一緒に住んでいた家を出て行った。だがそれは単に出て行く為の口実だったかもしれない。
俺が経営している社の主要銀行で働いているその女とは、その後、一切顔を合わせなくなった。たまに余所ですれ違ったって、目を合わせもしない。一度、俺がいるのを知ってか知らずか、これ見よがしに自分の手を握るおっさんの手に手を重ねているのを見かけた事さえある。
女の代わりに俺の所へ来るようになった営業の頭の悪い男が「あの女、体を使って営業の数を伸ばしているって話で」と唾を吐く勢いで陰口を叩いていたが、噂はあながち間違っていないのかもしれない。

引き留めても無駄だと知っている女に対して未練を引き摺る間もなく、結果的に見合いを受けた。
お嬢様なので会話や態度にそつがなく、金なんざ腐るだけあるし、服や持ち物の趣味も悪くない。それに何度か飯を食っただけで簡単に股を開き、男関係の派手さをそれとなく伺わせ、俺が他の女と遊ぼうがどうでもいいようだ。これで断る理由がどこにある。


「私だけが晋助の事好きみたい」
「さあな。どうだか」


女に何度も聞かれちゃはぐらかしたあの頃も、今となっては懐かしい。素直に気持ちを伝えるには照れがあっただけで蔑ろにしてたつもりはなかったが、女は俺のその言葉を聞く度に灰色の背中を向けた。
後ろめたさか、女の事は本当にどうだって良かったのか。交わした肌の熱は今じゃ氷の様な冷たさとなって全身を覆う。
だから、身勝手で身代わりの早いあの女の事は、忘れろという方が無理な話だ。
それどころか、可愛さ余って憎さ百倍、女に対して抱く感情はそんな言葉が当て嵌る。



女が家から出て行ってから数週間後。会社が損を被らされた。そして、うちと取引がある会社の中にはやくざの企業舎弟も含まれていて、一般企業のサラリーマンの皮を被った連中が群れをなしてやって来る確率は、夜になれば月が昇るのに等しいと言える状況に陥った。
損をさせた額は数億。払えない金額ではないが、連中にとっては金の問題ではない。そして損を被せてきたのも実はそいつらだというのも調べがついている。要は嵌められた。
元々後ろ暗い事をしている会社だ。瞬く間に噂が流れてたって驚きはしないし、見合い相手の女の会社から何の連絡もなくたって、何て事はない。ただじっとその時を待つ。

その確立が狂う事無く、連中が順当に俺のいる社長室へやって来たのは数十分前。
それからというもの、社長室には不気味な沈黙と怒号が繰り返され、抑圧された空気が部屋に充満している。一触即発。誰かが火蓋を切るのを待っている、そんな雰囲気だ。無様に床に散らばった社長の肩書が書かれてある俺の名刺は、今じゃ何の意味もない。

腰に挟んだ拳銃をぶっ放す機会を伺っていると、社長室のドアがいきなり開き、俺の秘書が制止する声もどこ吹く風といった女が現れた。銀行を休んでどこか旅行へ出かけるのか、黒のコートで全身を包み、右肩にはバックをかけ、左手には旅行鞄を持っている。
こいつが俺を嵌めたのだとしても大して驚かない。俺を苦しめる為とあらば、この女はそれくらいの策略を当たり前のように練る。

想像の域を出ないが、そう思われても仕方がないと言わんばかりに、女が俺を見る目は冷ややかだった。
それに元々黒だった髪の毛は栗色に染め上げられ、女の表情や雰囲気を一分たりとも明るくみせていない。黒いコートは唇の色素の無さと体のラインを強調していて、警戒を排して営業畑を歩んでいた前の雰囲気とはがらりと様変わりしている。
一目見ただけじゃ、女の陰口を叩いていたあの男だって、この女が同僚だと気付くのに難しいだろう。

女の乱入により、場の空気は一瞬弛緩した。だが場違いでもあり、俺が望んでいた事でもない。一拍遅れて、表情に影を差す。そんな俺と驚く周囲に対し、女は黙って旅行鞄を放った。連中の中でも下っ端の一人が中身を開くと、そこには数えきれないだけの金が詰まっている。
女は呆気にとられる周りの男共を冷静に一瞥し、その目を再び俺へと向けた。


「元々うさんくさい男だと思ってたけど…、ははっ、まさかこんな連中とつるんでるとはね」
「この金は何だ。頼んだ覚えはねえんだがな」
「これはあんたと別れる為の手付金。遅くなったから今持って来たんだけど…でもどうせ殺されるんなら持って来なきゃ良かった。ね、あんた達さ、殺すなら早くこいつ殺してくれない?そうしたらこのお金持って帰れるんだけど」
「だったらさっさとここから出て行け。目障りだ」
「あっそ。だったら出てく」


まあまあと言って女を宥めながら、目の前に降って湧いたような金と女に色めきたった連中の中のトップの男は、鞄が底上げされていない事を確かめさせた後、感嘆の声を上げて頬を緩めた。
かといって、差し出された金は、世界旅行の為にと俺と付き合っていた当時から女がこつこつ貯めてた金より、一介のOLが生涯稼ぐ金額より、はるかに多い。しかもパッと見ただけでこいつらの会社の損金よりも多い。短時間でどうしたらこれだけの金を用意出来るのか。
直感だがある事を思った。勤め先か。自分の足でこつこつ信頼を築いた営業先、か。
頭がいい女だと思っていたが、やりやがった。申し訳ないと思うより、喉の奥で思わず笑いを押し殺す。

その金を返そうと思った俺の意思に反し、連中は満足気な表情で部屋を出ていこうとした。すると連中の一人が、女の髪の毛に手を伸ばした。
ここでやっと拳銃をぶっ放した。何も難しい事じゃない。蠅を叩くのに何を躊躇する必要がある。後悔だってない。
これで女の金は半分程度の価値しかなくなっただろう。撃たれた男は他の男達に連れられて忌々しげに出ていった。

それから直ぐに、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
ここは高層階にある。それでも聞こえてきているという事は、大挙して来ているに違いない。
原因なら分かっている。


「…煩くなってきたから。じゃあね」
「どこへ行く」
「だって直ぐにまた新しい住まいを探さなきゃ。どこかにあれば、の話だけど」


女を匿えばどんな事になるかなんざ確率を考えるだけ無駄だ。間違いなく、泥沼の様な未来が待ち構えている。
女にも自覚があるのか。さっさと後ろを振り返り、俺を追い詰めるような事をさっそく口にした。

俺はやはりこの女が大嫌いだ。




勘定が出来るような愛情なら貧しいものさ


title;シェイクスピア著「アントニーとクレオパトラ」より
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