家にいてもする事が無く、かといって街へ出ても、やる事なんざたかが知れている。特に何かあるわけではないが、学校へ行く、という選択肢しかなさそうだ。ただ、退屈な授業を受ける気はさらさらなく、また屋上で昼寝でもしようと思い、一時間目が始まる時間に家を出たのだが、歩いているうちに灰色だった雲は段々黒く厚くなっていき、終いには雨が降り出した。
小学校の時の修学旅行以来天気予報とは無縁の俺だ、濡れるしかない。

学校が見えていた手前、引き返すのも面倒なので、意を決っしてさっさと前へ歩くと、小さな黒い塊ががたがた震えながら鳴いていた。
猫だ。しかも黒くて小さい。
目を合わせてしまったのがいけなかったのか、そいつは濡れている俺の足元に寄って来た。それは腹が減ってるからなのか、寒いからなのか、親がいなくて寂しいのか知らないが、俺には関係ない。
だから足を止めずにそのまま校門へ入り、玄関の前まで来たが、それでも猫は俺の後を追ってきたし、鳴き止まなかった。更に面倒な事に、足元に纏わりついてきやがる。俺の事などお構いなしに。


「にゃー」
「………」


わざと大きく舌打ちをしてから、玄関から離れた花壇の植え込みが近くにある大きな木の下へ行き、家から持って来た朝飯用の菓子をやった。
丁度授業中で、しかも雨だった事は、好都合だ。今がもし休み時間なら窓から誰かに覗かれているかもしれないし、晴れていたら外で体育をやっている連中に見られてるだろう。もっとも、登校時間内にちゃんと来ていたら、俺はこんな厄介事を抱えなくても良かっただろうが。


「美味い、わけねぇか」


鳴かずに食う事に集中している猫が、一瞬、ちらりとだけ、俺を見上げたが、食えない表情の俺よりも、やはり目の前の飯の方がいいようで、俺の目をまるで気にするでもなく威勢よく食い続けた。この調子じゃしばらくの間は食う事で忙しいだろう。それにまた纏わりつかれても困る。
だから食い終わるのを見届けずに玄関へ入ってしまったが、雨なので屋上には行けない。かといって、授業中だろうが騒がしい自分のクラスの教室に堂々と入って頭痛を引きおこしたくもないので、保健室へ行って寝る事に決めた。あそこなら静かだし、誰にも邪魔されずに済む。

ところが保健室に行ってみると、ベッドは既に埋まっているという。健康なくせに行ったからか、俺のような生徒が何人も来ているのか、保健室の教師は溜め息を吐いて形だけ謝った。
だが、このまま学校を抜け出したって、行く当てなんざない。そもそも、雨が降っていた日は学校には来なかった。知っている女を家に呼ぶか、平日の昼間だろうが呼べば来る奴は幾らでも居たからだ。
今も同じように時間を潰せばいいのだろうが、女と遊ぶのは飽きたし、高校の三年にもなったので皆降って沸いたかのように就職や進学を意識し出した為、これまで通りというわけにはいかず、だから少しは暇が潰せると思って学校に来てみたんだが。雨が降れば家にいるのと一緒か。現に廊下を歩いているのは俺一人だけ。


何も考えずに廊下を歩いていると、二階の理科室の前へと来ていた。だが他の教室と違ってドアが開いている。
去り際に中を覗くと、雨だというのに窓が開いていて、カーテンが大きく揺れていた。教室にはあの女教師だけ、他には誰もいない。レンズに雨粒を付けたくないのか、その窓を前に佇んでいた女教師は眼鏡を外していた。
…中々見れた顔だ。きちんと髪を整えて、ちゃんと化粧をすれば、まともな女に見えるだろうに。

俺の視線に気づいたのか、女は焼き付けたかの様な笑顔を見せ、入れと言った。
…何言ってんだ、この女。今は授業中だろうが。いや、そうだ。そうだった。この女は授業中だろうが授業を受けろとは今までも言わなかった。何を躊躇う事がある。
だが、このまま女の言いなりになるのは癪だ。ここにいなければならない価値も理由もない。
無視して歩き出そうとしたら「コーヒーを切らしてて悪いが」と俺の返事を聞かずに綺麗に洗ってあったビーカーに水を入れ始めた。


「…?おい、眼鏡はどうした」
「あれは視力を落とす為にかけているからな、今はかけてもかけなくてもどっちでもいい」
「………」
「どうした?早く入れ。それとも風邪をひきたいのか?」


わざと視力を落としていると言われても釈然としないし、実験用のガスバーナーでビーカーの水を沸かしているその行動の意味が分からない。それに雨に濡れたからって直ぐに風邪なんか引くか、ガキじゃあるまいし。
だが断る文句が思いつかないし、どこか行きたい場所があるわけでもない。
暇を持て余している時の一分一秒がどれだけ長いのか知っている俺は、仕方なしに理科室へ入った。

学ランを脱ぐと直ぐに乾いたタオルを渡された。生地が少し硬いが、ちゃんと洗剤だか柔軟剤の匂いがする。一応は洗濯がしてあるようだ。
それで適当に頭を拭いていると、湯が沸騰したらしく、女がその中に何か入れた。それは…どうみても紅茶のティーパックだった。


「…まさかそのままで飲むんじゃねぇだろうな」
「まさかのこれだ。私は小さい頃からこうやって飲んでいたぞ。食中毒を起こした事もないしな」
「小さい頃から?」
「祖父が大学で辨を採っていてな、大学の研究所に遊びに行くと、いつもこうやって湯を沸かして色々と飲ませてくれてたんだ。こんな喋り方なのも、その祖父の影響が大きい」
「親は何も言わなかったのかよ」
「何も言わんさ。いや、言えなかったと言った方が正しいか。私が物心つく前に二人とも死んだから」
「………」
「そんな顔をするな。誰も喜ばない」


確かに、他人の不幸自慢なんざ聞いたって面白くはない。自覚はないが、表情が暗く陰ったのだとしたら、そのせいだ。ただし女がそんな事を言ったのは、同情を示す言葉を探す他人の顔を自分が見たくない、からなんだろう。
事実、女の視線は既に俺にはない。話を切り上げたつもりでいるらしく、いつもと変わらない飄々とした雰囲気のまま、視線を引き出しの中へと向けている。どうやら砂糖を探しているらしい。
自分の不幸を売り物にして他人の気を引くような女ではない事は分かったが、結果的に俺は黙ってしまったので、女は砂糖が見つかったのにも関わらず、俺と視線を合わせると困ったように笑った。砂糖はいらない、とさえ言わなかったのだから、当然か。

それから、女は真新しい紙コップ二つに安い色をした紅茶を入れると、テスト用紙と思われる紙の束を取り出し、ペンを滑らせ始めた。
俺は何をするでもなく、適当に距離をとって座り、受け取ったコップの中身を飲んだ。舌の上に丁度いい温かさと、ほんの少しの渋味が広がる。甘味が無いだけにそれは単なる茶だ。
まぁ、いい。ここに長く居座るつもりはないので味にこだわる必要はない。少しずつ、何度か啜る。


「…さっき、猫に餌をやってただろう」


数分経って思い出したように呟かれた女の言葉に、一瞬、反応が遅れた。いきなり何を言い出すのかと思えば。
確かに女はずっと外を見ていたようだったし、木の側にあるこの教室の窓からは俺が食いもんをやっていた光景が見えてただろう。嫌なものを見られた。
らしくないと言って俺を笑うか。それとも学校に猫を連れてくるなと怒るか。
しかし女は笑わない。馬鹿にもしない。俺を見ずに下に置いてあるテスト用紙にだけ視線を向けている。


「学校の敷地の中に連れてくるなって?それとも餌を勝手にやるなと言いてぇのか?だったら安心しろ、二度はねぇ」
「いや、意外に思っただけだ。それに無責任にそんな事は言わん。自力で餌が取れなくなるから駄目だという輩がいるが、その猫が餓死寸前だったとしてもそれが正しいと言えるのかどうか分からんし、それ以前に、一度だけ会った猫が餓死するかどうかの境界線を獣医でもない一人の人間の判断に委ねていいのかも分からん。だから傍観するだけして、当の高杉にあれやこれや言う言葉どころか、責める権利さえ、私には無い」
「………」
「こういう話に関しちゃ銀八の方が上手く答えてくれる。もし答えを知りたかったら銀八に聞いたらいい」
「逃げる気か」
「逃げるつもりはない。ただ、私は答えが幾通りもあるものは…苦手なんだ」


女はそう呟いたきり口を閉じ、視線を手元のテスト用紙に再び落とした。自分の両親が死んでいる事さえ平気で口にしたのに、思い出にさえしたくないような事があったというんだろうか。

それをただ聞くのは簡単な事だろうが、自分の事には深く触れてくれるなという雰囲気が漂っている女に対し、中途半端な興味を振りかざしたり、いい人の面を被って何があったかを聞けるような雰囲気さえなく、初めて見えた壁を前に、口の中で苦味と一緒に言葉が澱んだ。美味い、わけがねぇ。


男と女の不都合な真実


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