久しぶりに学校へ来てみると、やはり判を押したようなつまらない授業が続き、昼休み中は相変わらずクラスの連中が煩いしで、俺がいようがいなかろうが、この小さな世界は何も変わっちゃいない。
本当は、こうした日常に身を任せるのも、それに対して鬱憤を募らせるのも、こう思う事すら、意に沿わない。二時間目の途中から授業を抜け出て屋上へ行ったのは、そんないつもの理由からだ。
見上げた空は理科の女教師が言っていた「生命の色」などとはやはり違う薄汚れた鉛色だが、ゴミ箱に捨てられたゴミ以下の停滞した現実に向き合うより、変化があるだけまだいい。

だが、前から俺にしつこく付きまとっているクソみたいな女まで屋上にやって来て、追い払っても無理矢理迫ってきてからは、それも難しくなった。
俺を満足させられる筈だと自惚れ、男なんてセックスが大好きでしょ、と実は男を見下しているこういう勘違い女は、俺の事を連れて歩くには丁度いい飾りにしか思っていない典型的なバカ女だ。だから俺の事なんて何一つ分かっちゃいないし、分かろうともしないので、俺が今ここで一切手を出さなくたって、「私は高杉と寝たの」的な嘘さえ簡単に吐くだろう。経験から分かる。
目の前の女は、俺の自制心をまるで試すかのように、盛りの付いた猫の様なべたべたした声を俺の耳元に寄せた。この女、頭の悪さにも程がある。


「うるせえな」


虫を追い払う時のような冷めた声を漏らしたのにも関わらず、女はそれでも勘違いを捨てずにフェンスに背中を預けている俺の太股の上に乗り、しきりに香水や化粧の匂いを擦り付け、しまいには着ていた服をつけていたブラジャー毎上にずらし、牛のようなただデカいだけの胸を俺に見せつけた。
鼻息さえ牛のように荒くさせて迫る女には分からないだろう、俺の気持ちは益々盛り下がるばかりで、次第に追い払うのも面倒臭くなり、溜め息さえ零れなくなった事に。それは感情と五感を排した、自己防衛の本能に基づくものだと言っていい。
女に手を上げる趣味などないが、そうでもしなければこの女は分かるまい。最終的にはそれも止む無し、と白けた心の中で決めると、乱暴な風の音と耳に障る女の声に紛れて、屋上のドアが開いた音が聞こえてきた。授業中に、しかも出入り口からは、俺と、この状況が見えないはずがない。だがそいつは立ち去る為にドアをまた開けるどころか、踵を返さずに足音を此方へ近寄らせてさえきたので、空に向けて薄く開けていた目を気配に向けた。一体誰だ。よっぽどの物好きならこの女をくれてやる。だがクソ女の肩越しに見たのは、またあの女だった。あの女教師だ。不意をつかれてびびったのか、俺のベルトを外しにかかっていた目の前の女は、胸を適当に合わせるだけ合わせ、俺を残して慌てて逃げていった。素知らぬ顔で俺の隣に来た女教師に、丁度いいタイミングだ、等と礼を述べる気はないが。


「…昼間っから襲われるとは。高杉も大変だなあ」


驚いた。少し浮世離れした外見からは処女だと思っていたので、免疫が無いあまり見て見ないふりをしただけだろう、と高を括っていたが、実はそうではないらしい。それどころか他の人間とは違って、外見や作り上げられた虚像だけで俺を判断せず、俺があの女をたぶらかしたわけでもない事も、ちゃんと分かっているようだ。
とはいえ、下手な説教など無用だが、一応は教師なのだから本当は止めて当然だろう。それをしないのは白衣とその下に着ている長袖のシャツを風の流れに任せながら、俺など見ずに遠くの空を見ているこの女も、俺の事を気にしている素振りで実は他の人間と同様結局は俺の事などどうでもいいのだろう。成程、大人の対応だな。


「止めずに覗きたぁ随分いい趣味だな」
「止めて欲しかったのか?嫌なら自分の意志で止めさせたら良かっただろう。それが出来ぬ程、高杉が非力とは思えん」
「…分かったような口をきくじゃねぇか」


唾を吐きかけるようにして言った俺の言葉を、女はただ笑って「当たり前だ」とヅラと同じ口調で受け流した。


「私はこれでも一応教師だからな。生徒の事は一応見てるつもりだよ」


生徒、か。まさかこの俺が、真面目に授業を受けている他の人間や、頭がイカれている同じクラスの連中、それにさっきのような女と一括りにされるとはな。
ムカつきはするが、同じ制服を着、仕事もせずに親の金でここへ来ている以上、否定は出来ない。ただしいつまでも不貞腐れる程ガキでもない。ここは敢えて反論はせず、隣にいる女の存在そのものに無関心を装うに限る。
女が俺に言葉を発したのは、それから随分と時間が経ってからの事だった。


「なあ高杉。高杉が私を見、こうして会話をする確率は、どれくらいだと思う?」
「…あ?」
「地球上に存在する生物の種類は300万とも1億とも言われているので地球上の生き物の中で人間として生まれる確率を300万分の1としよう。そして子宮内に着床した受精卵は細胞分裂を繰り返し、人間の細胞を形成していく。その確率は、細胞1つにつき1億円の宝くじに100万回連続当たるくらいの確率と言われていてな、人間の細胞は60兆個あるから1億円の宝くじに100万回連続で当たる確率×60兆。そして全人類が70億人だとして高杉と私が会うのは70億分の1。その他に、高杉の元となる受精卵になるまで確率、それが着床するまでの確率、私と同じ地球に生まれ、同じ日本に生まれ、同じ時間を生きている確率まで考えたら、どれくらいだと思う」
「…何が言いてぇ」
「つまりな、高杉と私だけじゃなく、高杉が誰かと出会った事は奇跡と言ってもいい。だから出会った事に何か意味があるのだと思えば、誰にもあまり腹は立たん」
「だからって、さっきの女や、てめぇみてぇなのに会うとはな。俺はよっぽど貧乏くじを引きたがるらしい」
「そうかもな。この広い空の下で、同じ時を生き、わざわざ私と出会って、こうして話をするなんて、高杉はよっぽど物好きに違いない」


この女はなぜこうも根拠のある話しかしないんだ。担任の銀八の場合は、逆に全く根拠も理論もない意味のない屁理屈ばかりこね、たまにウザったいほどの感情論をぶつけてくるが。どちらがいいと聞かれたらどちらもごめんだ。

だが確かに周りから変人呼ばわりされ、その意見には同調する俺自身がこの女との会話を成立させているのだから、物好き、と言われりゃそうだ。受け入れるしかない。
だが俺は自分の事を笑い損ねた。普通の女なら風で靡く髪を手で押さえるくらいはするだろうが、隣にいる女はそれをしていないどころか、その様子から、自分の事はもうどうなってもいい、とおよそ教師らしくない諦めにも似た閉塞感と自棄がつきまとっているように見えたからだ。しかもそんな周りの空気とは裏腹に、それでも女は笑っている事に、突如、喉の奥に魚の骨が刺さった様な違和感にも似たひっかかりを覚えた。
少し気になりはしたものの、無関心を装っていた手前もあるし、何を話せばいいのかさえ分からない。

結果沈黙が続くと、少しして休み時間を知らせるチャイムが鳴り、ドアが開いた重苦しい音が聞こえてきた。
どこかのクラスの女が女を呼びに来たようだが「先生…」と声を発した後に躊躇いが伺えるのは、探しててやっと見つけたはいいが、隣に俺がいたので、その先の行動の全てに二の足を踏んだからだろう。もしくはこの奇妙な組み合わせを目撃し、無い脳みそをフル回転させているか。
呼ばれた女は返事を待たずに「今行く」と答えると、思い出したかのように、数分ぶりに俺の名前を呼んだ。


「さっきみたいな面倒事に巻き込まれそうになったら、理科室に来い。誘った手前、コーヒーくらいは出してやる」
「だから…」
「誰が行くか、だろ?」
「………」
「私は高杉以上に物好きなんでな、断られると知って言ってみただけだ」


女が背中を向けると、突然、ざあっと風向きが変わり、以前は銀八と同じ匂いがしていた女の白衣からは、ほんの少しだけ、コーヒーの香りが漂ってきた。コーヒーを飲ませてやる、と言った今の言葉は、あながち嘘じゃないのかもしれない。


誰もいなくなり、またたった一人になった屋上で、太陽の光を受けて大分温かくなったコンクリートに背中を預け直し、目を閉じた。目を覚ました時には空も多少は違う色になっているだろう。それに退屈な時間を潰すには寝るに限る。
だがやっと邪魔なのが消えたと一息吐く間もなく、校舎内の教室のあちらこちらからは騒ぎ声が漏れ聞こえてきて、まともに寝られやしない。
これじゃあの女教師といた沈黙の数分前に戻った方がまだマシ、そう思いかけた俺はやはり物好きなんだろう。…あー、うるせえ。



不完全な二人



だがこんな小さな事で悩んでいた俺には、女に感じた違和感、女のおかしな喋り方、何故女は根拠のある話しかしないのか、そして寒くもないのに何故白衣の下に長袖を着ているのか、その理由を知る由などない。


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