朗らかな陽気の昼下がり、街の雰囲気に溶け込む赤レンガの喫茶店からは香ばしいコーヒーの香りが漂う。店内は窓から差し込む太陽の光に照らされ、火の灯されていないランプが所々に置いてある。カウンターに腰かけていた明日葉は流し場で洗い物をしている安田に声をかけた。
「あの、僕も何か手伝うよ」
「いいって。今の時間は客少ねえし。客が来たら注文とっといてくれ」
この喫茶店のマスターらしい人は今は二階で休んでいるらしい。結構な高齢でほとんど安田くんがしているみたいだ。常連さんらしき人にも親しまれて道行く人たちにも挨拶したり、とても馴染んでいた。僕は同じウェイター服を着ているけど、安田くんみたいに着こなせているわけじゃなく、むしろ切られている感じがする。初々しい、なんて最初のお客さんに言われてしまった。
「記憶、ね。俺の場合はどうでもいいっつーか。あんまり未練ねえんだわ」
「未練…?」
「そ。やりのこしたことがあったのにー、とか。そういうの考えずにあっさりだった」
美作くんも本好君も生前の記憶に対してあまり執着のないように感じていた。僕には無いから記憶が欲しいと思ってしまうけれど、三人は元からある程度あって、それで満足だと思っているのだろうか。
「藤は、きっとあったんだろうな」
「え…?」
「記憶全部覚えてるなんておかしいんだよ、本来。過去の灰羽にもそんな奴いなかった」
記憶を全て持つってのは想像する以上に過酷なことなんじゃねえの?と遠い場所を見つめて呟く。記憶はどの灰羽もある程度無くしいていて、それは元いた世界への執着を薄めるためだとか考えられたりもした。どちらにせよ記憶というのはある程度もっておけばそれでいい代物なのだ。なのに藤はその全てを持ち続けている。記憶に執着があるのか、元いた世界への未練が強いのか。その原因は誰一人として分かるはずもなく、当の本人ですら分からないのかもしれない。
「って、なんで藤の心配なんかしてんだろ」
あの無駄にイケメンのことなんか…、と自身を嘲けるような笑みを浮かべる安田くんは声には出さず吐きだすように僕の知っている人の名前を呼んだ。それは切なくて苦々しくて、それ以上に大切な想いが籠っていた。
「安田くん、花巻さんのこと……」
「…気になってた、かな。でも駄目なんだ。見たことあるか?藤と花巻が一緒に何かしてる時の様子」
「見たことはあるけど…あまり見ないよ」
「幸せそうなんだ。誰もその中に入る余地なんてないくらい」
気付いた時には遅かった、なんてレベルじゃない。俺の入る隙間なんて最初からなかった。二人が壊れてしまえばいいのに、そしたら俺が壊れた花巻をもらってやるよ。そんな馬鹿な考えを持った頃だってあったくらいだが今になっては諦めもついてしまった。壊れてしまえと願うのは簡単でも、実際そうなってしまえば俺は狂ってしまう。灰羽ではなく悪魔になってしまいそうで、この世界に来て初めて恐怖した。そんな恐怖を味わって竦んでしまう俺は藤に及ばないとその時点で理解してしまった。花巻は、すでに壊れかけている。俺には分かる。ずっと見てきたんだ、それくらい気付いて当然だろ。最悪なのは藤はそれを知った上で花巻の傍に敢えていることだ。あいつは花巻が壊れていようが正気じゃなかろうが迷わずその手を取って共にいようとするだろう。俺には逆立ちしても、もう一度死んだとしてもできない。だからこそ俺は俺の存在意義を見出した。
「俺は未練を知るためにこの世界に来たんだよ」
生前できなかったことをするために、もう一度生まれ落ちた。明日葉が来てすぐに俺はその考えに辿り着いた。灰羽には生まれ落ちた意味がある。
「明日葉、お前も見つけろよ。生まれた意味」
「安田君は…もう見つけたんだね」
「ああ。でもこればっかりはな、あいつらがどうなるか見届けない限り…俺はこれ以上進めそうにねぇからさ」
進む、とは何処に行くことを言っているんだろう。遠くを見つめる横顔は何を思って、…安田くんは花巻さんの中に何を見たというのか。壊れかけ…昨日の花巻さんを見ていなければ信じられなかったかもれない。でも確かに僕もこの目で見た。虚ろな瞳の死人のような無表情。普通なら浮かべられるはずのない表情を彼女は持っていた。そして藤くんはそれを見て笑っていた。二人がこの世界に生まれた理由はきっとある。それを見つけることが……意味になる。