ガタガタと窓に叩きつける豪雨は止む気配もなく、ごうごうと吹く風はまるで凶器のように木を建物を揺らす。電気はかろうじて通っているらしいが、先程から明暗を長い間隔で繰り返していたため電気は消してリビングのテーブルの上に点火された蝋燭が何本も立ち、仄かに火を保っている。男連中は木板で窓を補強し、真哉は年少組と蝋燭の傍に、花巻は台所で食糧の確認などをしていた。嵐の夜は何年振りのことか、皆にとって経験が浅かったが意外にも本好が冷静に対処を指示したおかげで必要以上に騒ぐことはなかった。
「姉さん、心配しなくても大丈夫だって」
「そうだぜ姐さん!これくらいへっちゃらっス!」
「はいはい。あんたたちはベッドで寝てなさい。そろそろ寝る時間でしょ!」
リビングの隅にあるベッドに二人を入れると真哉はそのままベッドの傍のイスに腰をかけて寝かしつけ始める。初めての嵐に気が高ぶって仕方ない年少組はなかなか寝付こうとはせずに苦戦しているようだが、こんな嵐の日ははしゃぐ声が案外微笑ましく感じるものだ。部屋の中は比較的柔らかな空気が漂っていた。安田と美作を筆頭に本好は聞き手に徹し騒ぐ横で、藤と明日葉は静かに椅子に座っていた。明日葉の心境は複雑以外の何ものでもなく、他の皆から好奇心もあって藤について色々聞いたことへの後ろめたさや知った今どう接すればいいか測りかねていた。
「こんな嵐の夜が、ずっと前に一度あったんだ」
唐突に藤が呟いた。それは独り言のようなものだったかもしれないが、明日葉は黙って聞いていた。藤は知っているのだろう。自分が皆から諸々の事情を聞いている事を、知っていながら泳がされていた。
「山蔵が、いなくなった日。その日も今日みたいな嵐の夜だった。皆が寝てから、一人でふらりと外に出て行ったんだ。俺は偶然起きてて、その後をついて行った。そしたら扉を開けて傘も差さずに外に出る山蔵を見つけて、何処に行くんだって聞いたんだ。濡れながら山蔵は笑ってさ、お前もいづれ来る場所にって言ったんだ。俺は何のことか分からなかった、けど引きとめることもできなかった。山蔵を見送ってすぐに森から天に向けて光の筋が伸びて瞬きを何度かする内に薄れて、なんとなく山蔵が消えたってことだけが分かった。灰羽はいつか天に招かれる。探し物を見つけた時、何の予兆もなくひとりで姿を消すんだ」
藤くんは消えるの?自然に出たその疑問を声に出すと、藤くんはかぶりを振った。ただそれだけだった。それから一言も喋らなくなって…僕は藤くんのことが気になっているはずだったのに、頭の中で別のことがひたすら巡っていた。僕もこんな嵐を知っている。この世界に来る前のモノであるはずの記憶、こんな叩きつけるような雨の降る薄闇。道を満たす雨水の中をばしゃばしゃとズボンの裾や肩が濡れるのも構わずに駆けて…そして、…どうしたんだっけ…?もう一歩で思いだせそうだ。でも確かに覚えているはずなのに、探る度に頭が痛む。この小さな手掛かりを手放してしまえばもう思い出せない気がして、歯を食いしばって更に駆けた後のことを思い出す。見慣れていたはずの景色も暗くてよく見えなくて、感覚だけで帰るべき家に向かって走って…。そして、僕は-----トンっと小さな衝撃があった。
「明日葉くん、息吸って」
隙間のないくらい近い花巻さんの顔に気付いて、忘れていた呼吸を突然取り戻した。喉からひゅーひゅーっと空気の素通りする音が体内に響く。額から流れる冷や汗がテーブルにぽたりと零れ落ちた。極度の緊張に陥っていたような、体から全ての力が抜けて指が震えた。そんな僕の様子を見ながら、花巻さんはハンカチを貸してくれて、水も用意してくれた。ありがとう、と掠れた声で言うと優しく微笑んで、私も時々なるから…辛いよね、と返された。
「何か思い出したのか?」
「え、う、うん。多分…」
「そう…無理しないでね…?」
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
ふらりと力の入らない足を立たせ部屋を後にする。ちゃんと笑えていただろうか。あまりに衝撃的な記憶の回帰に花巻さんの背中を見た途端にくらりと揺れた。耳の奥で雨音が鳴りやまない。雨の降る夜、僕は死んだ。もう今となっては過ぎてしまったことのはずなのに、思っていた以上にずしりとくる衝撃にまた眩暈がした。すでに蝋燭の消えた廊下は静かで暗くて先が見えなくて、僕は嗚咽を堪えた。伝う滴が一つ二つと石畳の上に落ちていく。どんなに悔やんでも悲しんでも壁の向こうを望むことも、まして行くことも最早できはしない。すでに灰羽である僕はどうもがいても人間に戻ることはできない。生きていた時の記憶が戻ったわけじゃないのに、無性に会いたくなった。人間である誰かに、きっと人間だった僕が大切に感じていたあの場所へ。なのに、こんなにもいとも容易く零れ落ちてしまうなんて。悔しくて溢れて止まらない涙を雨と共に僕は死ぬときにも流していたのだろう。涙で滲む光景と刹那の記憶が交差する。違うものは一つ、赤がない。僕から流れだしていた血は今ここには流れていない。

「…ああ、そうか。そうだ、僕は…」

どんなに願ってももう叶えられない、未練。生きていたかった。普通に過ごす日々を退屈と罵りながらも何より望んでいた。日々を笑って過ごして、時に迷っても全て自分で選び進んで、いつか愛しい人に出会って----そんな人生を送りたかった。

「殺された、のか」


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