*「窓を開けたならば」の続き
「あれ…?藤くん」
花巻が振り向いて口ずさんだ名前が俺のものだと気づいたのは一瞬後だった。ああ、と短く返事をするといつもは出会い頭だとあたふたと慌てる花巻が今に限って柔らかく微笑んで今日は気持ちのいい天気だねと語りかけた。
「…怪我したんだろ」
「うん。先生が丁寧に手当てしてくれたから…もう痛くないの」
持ち上げた腕には包帯が何重にも巻かれていた。その怪我も心配になるが、それよりも気になるのは花巻の様子だ。妙にハキハキとしているように思える。瞳は潤んで焦点があっていないにも関わらずなのは誰が見てもおかしいだろう。
「横になってた方がいいんじゃねえの」
「え?そうかな。もう大丈夫だから、教室に戻ろうと思ってたんだけど…」
絶対におかしいと確信めいたものが俺に使命感を与える。このまま花巻を戻すのは危険だ。予想しうる危険はすでにこのベッドを降りるところから、もうこいつをベッドから移動させるわけにはいかない。そんな考えと裏腹に花巻はすでに保健室を出る気満々のようだ。
「藤くんがいるってことは、今美術の時間なのかな。じゃあ教室に戻って絵の具を取ってから美術室に行かなきゃ。あ、でもまだ下絵が「花巻」
饒舌な言葉を遮って前髪に覆われた額を掌で触れる。あの救急箱からはみだした薬の空箱は多分解熱剤だろう、熱と薬のせいでこいつは現実と夢とがごちゃ混ぜになっているに違いない。薬は睡眠作用があるって聞いたことがある。熱で朦朧とした上に眠気を吸い込んだ脳みそのせいだ。でなきゃ有り得ないよな、こんなハキハキした花巻。
「いいから寝とけ。いいか?絶対ベッドから降りるなよ」
「え…?どうして?」
「お前熱があるのに授業受けるとかありえねえだろ。薬飲んでんなら尚更だ」
俺の言葉の何割をまともに理解しているかは分からないが、とりあえず素直に横になって毛布に包まったのには安心した。そういえばそのベッド、俺がいつも使ってるのにな。最近は窓を開けて寝るのが気にいっていた。窓から入る新鮮な空気を吸いながらお菓子食って漫画見て、快適の一言に尽きる。でも本来の使い方から大幅にずれていることに今更ながら実感を持った。それは置いておくとして、病人に外の風はよくないかもしれないと廻り込んで閉めようとすると花巻が待ってと遮った。
「風、気持ちいいから…閉めないでほしいの」
そよそよと頬を優しく撫でるこの春風なら大丈夫かもしれない。でも放っておくと何だか危なっかしいから俺は棚に置いてある漫画を一冊出してベッドサイドの椅子に腰かけた。そんな俺の様子を見て花巻は不思議そうに目で追ってくる。その視線を何故か心地よく感じて何となく緩む頬を手の甲でぐいと拭った。
「今日は風が気持ちいいんだろ」
そうだねとやけにもの分かりのいいはっきりとした返事は何だか慣れない。いつもはどもりっぱなしで”駄目”とかしか言わないもんだから慣れないのも仕方ないし、こんな花巻を見るのだって初めてだ。熱は人を変えるなんて言うが、それは本当らしい。気づけば静かな寝息を立てて眠りに落ちてしまった、頬の赤い花巻。俺と話したことも目が覚めた頃には忘れてしまうのだろうか。熱に浮かされていたから覚えていない、白昼夢だと思い込む、なんてざらにあり得そうな話なだけに----だからどうだというんだ。忘れてほしくない、そんな不可解な感情が行き場所を求めて彷徨ってる。ああ、風邪がうつってしまったのかもしれない。
風に運ばれてくる外からではない甘ったるい匂いに眩暈がした。
苺味の君は眠りの中
20100425