夜の冷たい風が吹き抜ける駅のホームのベンチで寄り添うように座る若い二人の姿を視界の端に捕らえた。傍には大きめのリュックとキャリーバックが置いてあり一見カップルの旅行者にも見える。しかしこの人も疎らな夜のホームには不釣り合いな歳のようにも思える。駅長をしていれば旅の若い夫婦など何度か見ることもあったが、その二人はそんな暖かな雰囲気ではない。先程から何の言葉も交わさず、ただひたすら夜間電車が来るのを待っているようだった。
「夫婦で旅行ですかな?」
「ああ、まあそんなところです」
声を掛けると男の方が静かに顔をあげて答えた。電灯の下に照らされたのは端正で筋の通った男の顔つきで、世に言う二枚目というやつだったが不思議と複数の女の影がありそうには見えない。それは手を繋ぐ隣の女性がいるからかもしれないし、そう考えればなんとも言えない親しみの湧く男だった。
「こんな真夜中に出発とは、今時珍しい」
「夜明けまでにはこの街を発とうと思いましてね」
他の街に越すために旅行用のように見えるバックは最小限の手荷物なのだろう。だが二人だけの道のりはさぞ新しい生活への期待に満ち溢れているべきではないだろうか。それにしてもこの夫婦は静かだ。特に女性の方は俯いて夫の肩に寄りかかったまま微動だにしない。
「奥様は気分でも悪いので?」
「いえ、そういうわけでは。疲れているんです。ここ何日か色々あったものですから」
「そうですか。何かあれば仰ってください」
一瞥してその夫婦から遠ざかる。知的好奇心だけで踏み込むのは出過ぎたことだろう。さて、電車が来るまで後10分というところだろう。あの夫婦にとってあの電車はどういう門出となるのか、見届けられないのは残念ではあるが、せめて見送ることが私の職業だ。それにしても今日は寒い----
居心地が悪かったわけじゃない。ただ浮いた存在だと自負していながら俺は藤家にいた。幼い頃から世話を焼いてくれた仲居の人達、厨房でつまみ食いしても笑って許してくれる板前達。家に入れば迎え入れてくれる人間が沢山いた、はずなんだ。なのに俺は異端だった。藤家の人間としてあるべき要素をどこかに落として、そのまま大きくなった。山蔵のような藤家の模範的な存在になりたかったわけじゃない。自分のありように不満なんてないし、俺は俺以外の誰でもない。でもいつからだっただろう、家に対して疑念ばかり抱くようになって、そしてそれすら無駄な労力であると諦めたのは。
昔の俺はもっと純粋に家を好いていただろうに、今はもう家に何の未練もなくなっていた。雁字搦めに縛りあげて将来の道を強いるだけの冷たい檻にこれ以上籠っていられなくなったんだ。だから勘当同然のやり方で家を出た。周りの引きとめる声を目を閉じ耳を塞ぎ無視して用意していたリュック一つで家を飛び出した。あては何一つ無かったが、ただ一つだけ気掛かりはあった。花巻美玖のことだ。
藤家に見つからないようにひっそりとそれでも確かに繋がり続けてきたのはあいつを守るためであり、俺のエゴでもあった。けれど手放したくない離れたくないと思えば思うほど現実は正反対に追い詰められていった。だが今の俺は藤家の人間じゃない、ただの一人の男だ。
「美玖、…いいのか?」
「ここから遠い、誰も私達を知らない街に…」
道行きは先の見えない逃避行。いつか必ず終わりの時が来るだろうことは漠然とした不安の中にあり、その最後は小説や演劇の中では常に凄惨なものだ。現実とさほど変わらぬ芝居の終焉になぞえらえるつもりはないが、そうならないとは限らない。誰もハッピーエンドを保証することはできない。けれどだからこそ俺は逃げる。繋いだこの手を離したくないから。
美玖の唇が微かに動いた。その声は到着した電車にかき消されてしまったが、俺は彼女の小さな望みを叶えた。俺にとってもう一歩踏み出すために、彼女にとって踏み止まる為に。
ねぇ、抱きしめて。先の見えない未来なんて考えられないくらい強く。
20100422