新月の夜は、特別な日課がある。
鼻歌交じりに夜の池袋を闊歩する。とは言え今いるのは賑やかな駅前でなく、少しばかり寂れた住宅街である。似たようなアパートの立ち並ぶ景色のなかを歩き、ひときわ築年数の経過している趣のある――端的に言えば、ボロい――アパートに辿り着いた。月明かりがないからこそ、俺はこうしてここを訪れることができる。月に見られては駄目なのだ。そう、誰にも知られるわけにはいかない。愛しい愛しい彼との逢瀬は。
錆びた手摺りに触らないよう、階段を昇る。古い金属製のそれが時折ぎしりと嫌な音を立てるのを聞きながらも、浮かれた心は一向に収まる気配もない。だって、こうして彼の部屋を訪れるのも実に一か月ぶりのことなのだ。会わない時間が愛を育むのだとしても、本当は俺だって毎日君に会いたいんだよ。
ボロアパートの二階、右から三番目の部屋の前に立つ。表札には愛しい君の名前。
「平和島静雄」
声に出して、マジックで書かれた無骨な字をなぞる。玄関の鍵はさすがに閉まっている。けれどその隣、流しの前の大きめな窓の鍵はいつも開いている。こういうとこ不用心だよね、と思いながらも窓枠に手を掛け一息に室内に侵入し、シンクに足を着ける。流しに腰かけ靴を脱いだら、それを玄関の静雄の靴の隣に綺麗に並べた。なんだか同棲しているみたい。そう独り言ちて微笑む。
「シーズちゃん、来ちゃったー」
語尾に音符でも付けたいくらい、上機嫌な声で部屋の主に話しかける。眠っている彼に配慮して声のトーンは落としているけれど、それでも隠しきれない高揚がなんだか照れくさい。君が起きてたらからかわれてしまうだろうか。ベッド脇に座り込み、寝息を立てている静雄の顔を覗き込む。
「シズちゃん、今日もお疲れさま」
少し疲労の見える寝顔はそれでも穏やかで、意外とかわいい。俺の声を聞いたせいか、眉間に皺が寄っている。眠っていても勘が良い。流石だね。
「今日はちょっと疲れてるね。なにか嫌なことでもあったのかな?」
なんて、本当は知ってるよ。今日はいつもの取り立ての最中に、面倒な輩に絡まれたんだよね。ああ、誤解のないように言っておくけど、あれは俺がけしかけたんじゃあないよ。だから俺も少しばかりおもしろくない。君にちょっかいをかけるのは俺だけでいいのに。まあ、愛しい人間のやることだ。腹は立つけれど、そんな愚かな行いも許そう。
君はいつものようにその理不尽な力ですべてを薙ぎ倒していたけれど、距離を取っていた田中トムにまで手を出す奴がいた。慌てて持っていた標識を投げたけれども間に合わない。結果として君の上司は多少の傷を負うことになったわけだ。
「優しい君のことだから、あの人に怪我をさせてしまったことを悔いるのはわかるけれど。そんな風に君ばかりがすべてを背負い込む必要なんてないのに」
君だけが傷を負う必要なんて、ないのに。額にかかる髪を払い、眉間に寄せられた皺を指先で揉みほぐす。深く息を吸い、吐き出した静雄は、今度こそあどけない寝顔になった。その鼻の先にキスを落とし、額と、両頬にも唇を寄せ、軽く触れる。
「でも、なんだか妬けちゃうな。君があの人に向ける優しさのほんの一匙ぶんだけでも、俺に向けてくれたらいいのに」
普段の殺伐とした関係も嫌いじゃないけど、何度夜の逢瀬を重ねたとて一向に軟化しない彼の態度には、俺も少し凹んでいるんだ。
だけどいいんだ、わかってる。俺と君とは、月にも内緒の関係だからね。だけどそろそろ帰らなくっちゃ。深い眠りに沈んだ君の、閉じられた瞼に口付けを落とす。
「おやすみ、シズちゃん」
玄関に置いた靴を手に、入ってきた窓から身を乗り出す。もう一度室内を振り返れば、安らかな寝息を立てているのがわかって、安堵に自然と笑みが漏れた。
窓を閉めて、元来た道をゆっくりと引き返す。君は今頃夢の中だろう。もう少し待っていてね、きっと俺もそこに辿り着くから。今夜は優しい夢で逢おう。
そしてまた明日も、笑顔を見せて。
(おやすみ、俺の秘密の恋人)
→恋人じゃないしそもそも不法進入だし
Q.合い鍵作らないの?
A.「だってシズちゃんに照れながら渡されたいから////」
そんな日はたぶん来ない。
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