彼女は小説家という生き物だ。
正しくは表現者だろうか。今彼女が取っている手段が文字列なだけで明日になったらそれが数式に変わっているのかもしれない。そしたら彼女の事を博士と呼んでからかおう、なんて楽しい妄想をした所で隣室から叫び声がした。
ガムを一個手に取り立ち上がる。時計を見た、夜中の3時だ。
慌てず騒がず、散歩するより遅いペースで彼女の元に【駆けつけ】なくてはいけない。
この場合僕も騒ぐという行動がバタフライ効果となって、結果の振り幅がとんでもなく変わってくるのだ。
「ガム食べる?」
彼女は怯えた小動物の様に縮こまって、しかしキーボードを叩く手を止めない。
きっとまた架空の誰かの幸せなストーリーが生まれているのだ。
彼女の体内にあるのは血や肉ではない。文字だ。1秒ごとにどこからともなく生み出される文字たちは彼女の全身を駆け巡り支配する。行き場を失ったそれらは出口を探すがそれは口では満足しない。逃げられない程明白に文字として出さねば彼女に巣食った文字達は頷かない。文字として打ち出すスピードがそれに敵わない時、彼女は絶叫でそれを示す。言葉にならない声たちは、多分言葉にならない事が正しい形なのだ。
彼女は悪霊とも女神とも言えるそいつらを文字にする。というより僕は彼女自身が文字ではないかとたまに怪しむ。文字製造機。とんだ怪物を妻にしたものだ。
彼女の書く物語を皆が好きと言う。文学部等を卒業したわけでもないいきなり現れ賞を総なめにした気鋭の新人は多くの恨み妬みをかっているが、それすら気にも止めない執筆ペースで物語は生まれていく。
彼女は幸せな物語を生み出し続ける、不幸せなベルトコンベアーだ。
「もう書けない」
僕の質問など届かなかった様に、彼女は手を止めてしばらく黙ってから呟いた。存在を無視されたガムが余りにも可哀想だ。僕はその不憫なガムを口に放り込んだ。少しは報われるだろう。
「書かなくていいよ」
それが君の全てではないから。
本心からそう言ったのに彼女は何故か泣き出した。
きっと今まで、僕が【書ける彼女】の事を愛してると勘違いしていたんだろうか。それが誤解であると何としても伝える為に、力の抜けた彼女の体を抱きしめた。
温かい。何が怪物だ。
「違うの」
震える目蓋がゆっくりと開いてその瞳孔の開き方に息を呑んだ。
ああ。ああ、どうしたらいいのだろう?
「違うのよ、それも私の中では・・・」
途切れた言葉の続きを、きっと僕は知っていた。
でもきっと、これが彼女なのだろう。
「今、また書く物語が出来てしまったの、生まれたの。ごめんなさい」
抱きしめた僕の腕からやんわりと逃れ、キーボードを叩く音が再開する。
彼女が生きてる限り文字は生まれ続けるのだろう。僕はとんでもない女性を妻にしてしまったようだ。
それでも愛という名前の縛りがある限り、僕はキーボードが叩かれる音を聞いているのだろうと思った。
次の物語は、寡黙で孤独な小説家に焦がれる哀れな男のハッピーエンドだろうか。
目を瞑りながら、それが僕にも訪れる事をただ願った。










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