一時的に音を失ったその空間は、煩雑な事態を忘れてしまうほど、あまりにも静かだった。
 しかし数秒後、空間は音を取り戻す。
 ガガ、ガガガ。滑りの悪いレールのせいで、ドアを開ける拍子には必然的に耳障りな音が立つ。
 開かれたドアから、まず最初に現れたのは――静雄だった。
 静雄は、仰向けに倒れている一つ上の学年の先輩二人が、完全に意識を手放した状態であることを確認すると、ゆっくりと膝を折り曲げて、動きを止めた二本の缶ジュースを拾い上げる。
 そして、獅子崎が消えていった方角を暫し無言で眺めた。
「――『それでも二人で仲良く飲め』ってか……? ははっ、どこまで理想の『正義の味方』なんだよ、気色悪いなぁ……」
 再来した沈黙を次に破ったのは、嘲り調子の臨也の声。
 その皮肉じみた科白を不快に感じたのか、静雄が眉間に皺を寄せて臨也を睨み上げる。
 立ち上がる動作と共に、何か言い返そうと息を吸い込んだが、それは声に変換されない結果となった。
 静雄より0.5秒ほど先に、臨也が声を紡いだからだ。
「苦手だよ、獅子崎先輩。あまりにも理想通りで、典型的で、善意が人間になったみたいなあの人は、俺とは違い過ぎる。相性が合わない。……愛せはするけど、好きになれそうにはないな、やっぱり。……今ので確信したよ」
 臨也自身ではある結論に結びついているようだが、静雄には理解できなかった。

 愛せはするが好きにはなれない。
『love』は『like』の先に突き進めば辿り着くものではないのか。
 臨也にとっては『愛』と『好き』は別物ということなのか。
 訊ねようとして、寸前でやめた。
 もともと静雄は、誰かを好きになったことも愛したこともない。
 恋をしてこなかった――わけではないが、自分の力を制御できずに傷つけてしまうことが怖くて、『恋』は芽生えても『好き』には成り果てず、いつも自動的に自閉されてきた。
 だから、人を愛したことない静雄は、人を好きになったことのない静雄には、臨也の『矛盾』を指摘することができなかったのだ。

「正義の味方ってさ、悪党の親玉助けたりとか、意味不明な行動するよね。獅子崎先輩もそれと同じ。どこまでも果てしなく正義を貫き通す信念が彼の大部分を占めている。……邪魔臭くて邪魔臭くて……いっそ遠くに消えてくれればいいのに……」
 嫌悪感を存分に滲ませた声からして、恐らくそれは臨也の本心なのだろう。
 悪巧みをする度、ほとんどの確率で獅子崎に宥められ、稀に計画を潰されたことも過去に何度かあったのだが、その時は悔しがってはいたが、存在を否定するような言葉は一切吐かなかった。
 しかし、今回は違う。
 計画を台無しにされても怒らなかった臨也が――今は、明らかにキレている。
 一体何に対して怒りを抱いているのかというと……
「俺は恩を売ることは好きだ。……けど、その恩を『親切』って形で返されるのは……」

「大嫌いなんだよ」

 ありったけの低い声。黒幕気質な少年は、正義の味方を疎ましげに睨む。
 腹の底からこぼれた科白に、静雄は僅かに怯みかけたが、堪える。
 堪えた次の瞬間、臨也の怒りの矛先は軌道を変え、静雄へ突き立てられた。
「俺一人でなんとかできるってのに……頼んでもないことをやるだけやって……シズちゃんだって同じさ。なんなの、今日一日俺につきまとってさ……そんなにヒーローになりたい? それなら偽善掲げて高らかに笑ってれば!?」
 静雄にも判断できるほど、態とらしい『いつも通り』の嘲笑と共に、感情を完全に制御できなかったのか、臨也が珍しく声を張り上げた。
 自分自身を冷静に分析できる臨也が、心の綻びに気づかないわけがない。
 繕うように、今度は静かな声で言葉を続ける。
「迷惑なんだよ……新羅も、ドタチンも、獅子崎先輩も……。挙げ句の果てにはシズちゃんまで俺の心配するとか……なんだ、それ……」
 力の脱け落ちた、とも言える、怒りを押し殺したような希薄な声。
 いつも通りに戻そうとしているのは明瞭だ。
 しかし、怒りは鎮まらない。
 制御しようとすればするほど、『いつも通り』から脱線していく。
 所詮臨也も、人間だった。
「この俺に多大な屈辱感を与えられて良かったね、おめでとう。……だからさっさと消えてよ。俺は俺を――」

「俺一人で、護っていける」

 いつになく、人間らしい彼。
 いつになく、彼らしくない、彼。
 なぜ彼は、人間になれるのになろうとしないのだろう。
 やはり静雄には理解できない。
 ――なんでだよ。
 ――意味わかんねぇ。
 ――そうやって他人と一線引くくせに、ちょっと踏み込めばここまで激怒して、ありったけの力で嫌悪して拒むくせに……
 ――なんで、手前は……
 遠ざかる背中を引き止められず、その薄い背中に思いを馳せながら、静雄は堪えるように拳を握る。
 肉に食い込んだ爪は皮を裂き、僅かに血を滲ませたが……
 痛みは、なかった。から、流血に気づかなかった。
 拒絶を示す背中は孤高であるが――
 どこか淋しげにも見えて。
 一体彼の何がどういう理由で、ここまで臨也を歪んだ人間に築いてしまったのか。
 興味がない。だが、知りたくないと言えば嘘になる。
 だが静雄は動けない。
 自分が触れてしまえば散り散りに砕け落ちてしまうような錯覚がするほど、それはそれは儚げな背中だったからだ。
 ――臨也相手に、何を躊躇ってんだ俺は……!
 階段を登っていく様を苛立ち混じりに眺めることしかできない静雄。
 ――苛立つ……? なんで俺は、苛ついてんだ
 それは苛立ちというには、あまりにも焦燥が色濃いのだが。
 自分自身に疎い静雄はそれにすらやはり気づけない。
 臨也の姿が空間から完全に消えて暫く経ち、静雄は漸く自分自身の体の異変に気がついた。
 血が流れてる。

 やけに鼓動が速い。


♂♀


来神高校 屋上

 既に夕焼けに染まった池袋。
 夕日に背を向けた状態で、臨也は一人ぼんやりと足下の光景を眺めていた。
 下校する生徒がちらほら目につく程度。愛しき人間達は、もうここには限られた数しかいないのを物語っている。
「人が……足りない……」
 臨也の動力、基、エネルギーや養分とも言える人間がいないというのは、彼にとって酷なことらしい。
 網に指を引っ掛けたまま、シャンと音を立てながらフェンスに額を押し付け、深刻な人間不足を嘆く臨也。
 うなだれながら意味のない呻き声を上げてみるが、当然状況に何ら変化は現れない。

 ふと脳裏を過ぎるのは、馴染みとなった顔。
 苦笑しつつ上辺だけでも自分の身を心配してくれた新羅。
 さり気なく擁護しようとしてくれる門田。
 どこから話を聞きつけたのか、突如現れた獅子崎一。
 そして、平和島静雄の不審な行動……。

 ――あいつは……何がしたかったんだ……?
 よくよく考えてみれば、静雄がおかしくなったのは今朝臨也の下駄箱から溢れ出たあの大量の紙切れを見てからだ。
 ――ああ、同情か……。バケモノに同情されるとか……。……。笑えないな。
 半ば自虐的に笑ってみせるが、どうも腑に落ちない。
 多目的室での謎の行動。
 臨也を隠すように覆い被さった、あの行動の真意とは?
 あれでは、まるで――
「俺の代わりに彼らを潰そうとしてたみたいじゃないか……」
 あの程度なら臨也でも簡単に眠りにつかせることはできた。
 臨也がそこそこ『できる』ということは、静雄が大いに理解している筈なのに。
 ――嘗められたもんだな。
 苛立ちに、つい顔が歪む。
 感情のままに臨也が小さく舌打ちを鳴らすと、ガシャンと耳障りな喧しい音を立てて、荒々しく扉が開け放たれる。
 荒い呼気が、一つ、二つ、三つ、四つ……。
 足音に掻き消され、それ以上は数えることができなかった。
 しかし『大勢』であることは振り返らずとも容易に判断できる。
 ――やっと来たか。
 一般基準で言う、再度の『危機的状況』にも拘わらず、臨也はやはり絶望しない。
 それどころかニタリと粘っこい笑みを貼り付けて、徐に振り返った。
 そこに集っていたのは、臨也が愛してやまない人間達。
 よほど急いで来たのだろう。酸素を貪ることに必死で、彼らの誰一人として碌に言葉を喋ることができない。
 そんな、無様で哀れな人間達を、臨也は迎えるように誇大に腕を広げて、声高らかに朗々と告げた。
「やあ、随分と手こずっていたようだね。待ちくたびれたじゃないか」
 タメ、先輩などという境目は臨也にとってどうでもいい。
 臨也はここに集った人間達に、平等に声を掛ける。
 こちらが口火を切ってやったことにより、リーダーと思しきスポーツ刈りの少年が臨也を睨め上げた。
「っにが、『待ちくたびれた』だ……! 散々逃げてたなぁ、オメェじゃねーかよ!!」
 その少年の傍らにいた、いかにも頭の悪そうな少年が、吼えるように怒鳴りつける。
 こわいこわい、と怯えの一つも浮かべずに、臨也は澄ました顔で表面ばかりの言葉を漏らした。
「だってほら……ただされるがままなんて、割に合わないしねぇ?」
「っ、てめ……」
「よせ」
 挑発に乗る少年を制したのは、リーダーである少年・董。
 董は一呼吸分の間を置いて、もう一度息を整えると、真っ直ぐに臨也を見返した。
 そして意味を咀嚼する上で妙に引っ掛かった言葉を口にする。
「……『待ちくたびれた』……?」
「ああ、やっぱりあなたの方が話が分かるみたいですね!」
「ああ!?」
「だからよせって! ……その言葉といい、わざわざ逃げ道のねぇ屋上を選んだことといい……まるでこうなることを望んでいたみてぇじゃねぇか。なあ? 折原君よぉ……」
「おいおい、それって……」
「なになに? 本当にその気ってこと!?」
 董が臨也の言葉の意味を紐解いたことにより、やっと理解することのできた面々がそれぞれ声を上げ始める。
 卑下た笑いも、思春期にありがちな欲情も、どれもこれもが人間らしく、故に、愛らしい。
 臨也は目を細めると、可愛らしい猫を見るような瞳で、音もなく微笑んだ。
 あまりにも、妖艶に。
「ちょっとムシャクシャしていてね……解消法として選んであげたんだ」

「君らの相手……シてあげてもいいよ……?」







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