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来神高校6F

 臨也に導かれるままに全速力で走ってきた少年は、息絶え絶えに6階にあるプール付近で呼吸を整えていた。
 3階から4階まではついていけた。しかし、階段だけならまだしもフロアに躍り出て廊下を駆け抜けるものだから、そのため体力は激しく消耗する。
 4階から5階の時には大きく距離を離され、彼らが6階のプール前に辿り着いた時には、既に臨也は姿を眩ましていた。
「――チクショウッ!! あいつどこ行ったぁ!?」
 内の一人が強かに壁に拳を打ち付ける。
 他の少年達も、苦しげに呼吸を整えていた。
 そんな中で、董だけが冷静な眼差しで傍観者的に辺りの光景を眺めている。
 董は一度瞼を閉じると、心を鎮めてから少年らに向き直った。
「昇降口を塞ぐようにしろとは事前に言っておいた。だから折原は校舎内から出られやしねぇよ」
「……塞いだっつったって……野郎の並外れた運動能力じゃあ簡単に突破されちまう! 意味ねぇだろがっっ!!」
「まあ、そう熱くなんなよ。……知ってるか? 折原には小学生に上がり立ての双子の妹がいるんだぜ? 確か9歳離れだったかなぁ……。来良小学校に通ってるって話だ」
「……おいおい」
「まさかテメェ……」
「その女の子達を人質にしちまおうとか思っちゃってたりっ?」
 各々が各々の感情を抱き、各々の言葉を口にする。
 そんな多種多様のメンバーに対して董はニタリと口角を吊り上げると、『ああ』と言って頷いた。
「うよぉーっし! そうなったら俺、双子ちゃんの遊び相手してやろうかなっ!?」
「ああ!? ズリーぞオメェだけ!」
「俺も双子ちん嫐っちゃうよーん」
「折原の妹だから期待できそうだなぁあ……!!」
「いや、待て待て。相手小学生だぞ? お前らロリコン?」
「や、それ以前に常識的に考えろよ。それもう犯罪じゃん……」
「バレなきゃ犯罪になんないんじゃねーの?」
「そーそー。ショーネンホーが守ってくれるよきっと」
 起死回生し、意気衝天とする少年ら。
 しかしそんな意気投合する彼らの枠組みから、一人外れている人物がいた。
 董だ。
 董は『双子の女子強姦大作戦』で盛り上がる彼らを、遠巻きに眺めているだけだった。
 ――やっぱりみんな、男より女のがいいよなぁ……。
 ――俺だって同じ。男趣味なわけじゃねぇから男より女のが好きだし。今でも変わらず女大好きだ。
 ――それが健全な男子高校生たるもんだろ。
 ――けどな。だけどな。
 ――俺は女よりも――折原臨也が、いいんだ。
 ――折原さえ手に入れば、女なんざ必要ねぇ。折原さえいりゃそれで満たされる。
 ――……やっぱ俺、健全じゃねぇわなぁ……。
 董がそこまでして折原臨也にこだわる理由。
 それは、彼の過去の方にある。
 そう。あれは忘れもしない――
 董が高校一年生の頃の話だ。

「――とにかく、奴もそれなりに疲れてる筈だし、この近くにいる可能性もある。今日水泳部の活動がないプールなんか、絶好の隠れ場所じゃねえか」
「確かに。……うーん、プールかぁ……」
「まさかの水中プレイ?」
「おめぇの発想マニアックだな、おい」
「でもアリだな」
「あの顔を濡らすと……。うんわ! エッロ!! 僕ちんの勃起しちゃーう!」
「お喋りはそこまでにしてよ、さっさと折原とっ捕まえちまおうぜ。……念のためお前ら二人は教室を、残りはプールを捜せ」
「うぃーす」
「了解っす」
 董の指示通り指名された二人は教室が並ぶ方角へと歩いて行く。
 それを暫く見送った董は、残りのメンバーに向かって不適に笑んだ。
「折原はもう、袋の鼠だな」


 董が仲間達を引き連れプールのある方向へ足を進める中、
 5階と6階を繋ぐ狭間――踊場付近の階段で、息を潜め存在感を押し殺している人間がいた。
 そこにいたのは、臨也だった。
 臨也は董の予測を見事に裏切った場所に、先ほどからずっと佇み、彼らの会話を傍聴していたのだ。
 ――へえ……俺について彼も、なんやかんや調べ上げたんだねぇ……敵ながら天晴れだ。
 軽い称讃をし、ポケットにねじ込んだ携帯電話を取り出すと、臨也は時刻を確認する。
 ――……この時間ならまだ間に合うな。久々にクルリとマイルのお迎えにでも行くか……。
 本当は董の口から実の双子の妹達の名前が出てきたことで、焦燥に駆られたがために行き着いた発想であるというのに。
 臨也はそんな自分の心の動きを素直に認めず、あくまで妹達のお迎えに行くのは『自分の気が向いたから』だと断固主張する。
 一筋縄ではいかない自身の感情に肩を竦めると、そのまま踵を返して音もなく階段を降りた。
 万が一のことを考え、そのまま一気に一階にまでは下りず、あえて昇降口寄りの階段を使って降りようと通路に出た。
 しかし
「――!?」
 多目的室の開いたままの入口から高速で腕が伸びかかり、そのまま躯幹を搦め捕られてしまった。
 ――しまっ……。
 だが気づいたところでもう遅い。
 臨也の体は容易く浮き上がり、力任せに多目的室内に引っ張りこまれてしまった。
 、 、 、
 力任せに。

 多目的室の扉は臨也を呑み込んだ直後、音を立てて閉ざされた。


 ――部屋の中は薄暗かった。
 あまり使われない、無意味なほどに広い空間は、入る者を迎え入れるのではなく、かえって弾き出そうとしているような印象さえ持てる。
 ――そこで臨也は気が付いた。
 いくら自分が細身であるとは言え、170センチ以上の身長である男子高校生を抱え上げられる者が、果たして一般の男子高校生に存在するのだろうか。
 答えは、『イエス』
 この来神高校では現時点、常識を覆すような膂力や脚力といった類の『力』を持つ者が二人いる。
 一人は臨也の先輩にあたる、獅子崎一。
 そして――もう一人が――
「……こんな時間にこんなところで何やってんの……シズちゃん」
 臨也が心底毛嫌いし、同じ人として受け入れたくない人物――平和島静雄だ。
 腕を突っ張り、痩身ではあるがほどよく筋肉のついた胸板から顔を剥がせば、臨也の予測通り、そこには平和島静雄の顔があった。
 静雄は臨也と目を合わせると、間髪入れずに、ぐぐっ、と眉間に皺を寄せる。
 いつも静雄が臨也に見せる表情の完成だ。
 静雄はハッと鼻で笑うと、嘲るような声で言葉を吐いた。
「手前こそ、なにノミ蟲みたくピョンピョン跳ね回ってやがんだぁ?」
「ピョンピョンて……。あのねぇ、そんな擬音をつけられても――」
 反論の途中、肌がピリリと何かを察知する。
 それは静雄も同じだったらしく、二人はほぼ同時に弾かれたように扉を見た。

 階段を降りる足音。
 人の気配。

「ちっ……」
 臨也の研ぎ澄まされた直感は、足音の主はプール組から省かれた二人組だと告げている。
 静雄が臨也を連れ込み、ドアを閉めた時、破壊的とまではいかないが、上や下の階に響いてもおかしくはないような音が立った。
 それを聞き逃さなかったのであろう6階を巡回していた二人が、音の正体を確かめにわざわざここまで降りてきたのだろう。
 ――仕事熱心だねぇ。こういう時は怠ってくれたっていいのに。
 心中で一人ごちながら、苦笑する臨也。
 だがたった二人だ。恐れる必要など何一つない。
 たった二人ぐらいなら、声を上げさせる前に眠りにつかせる自信が臨也にはあった。
 臨也は緩んだ静雄の腕から抜け出すと、扉に向き直り奥に目を凝らす。
 そしてそのまま廊下側の壁に体を貼り付け、ドアの硝子から二人が通り過ぎるのを見計らい、後ろを狙う――つもりでいたのだが……。
「……? ちょっ……!」
 壁の死角の位置に移動して、廊下の様子を伺う臨也に、静雄は後ろから覆い被さった。
 壁に押し付けられ、ぎゅうぎゅうと体を密着させられる。
 反射的に両手を壁についたが、後ろから圧迫され過ぎて、そこに力を篭めたくても篭められない。
「あれー? やっぱ上だったかねぇ?」
「分かんねー。でも、俺は下から聞こえた気がしたぞ?」
「幻聴とかじゃねえのー?」
「……多分違う」
 声が近づいてくる。
 確実に、こちらへ向かってきている。
 ――何だよ……何のつもりだよ、こいつは。一体……一体何を考えてるんだ……?
 その緊迫感がいつの間にか臨也の焦りに拍車をかけていたのだろう。
 軽い錯乱状態に陥っていた。

 ぐいぐい壁に押し付けられる。
 潰されてしまいそう。呼吸が辛い。
 鼓動が、早い。

 ――くる、し……っ……!!
 気配から位置を推測するに、彼らはもうすぐそこまで来ている。案の定、硝子の向こう側に人影が見えた。


 ――子供の頃から鬼ごっこだとか、そういった類のお遊びで、臨也が負けたことは一度もない。
 特に隠れん坊は強かった。
 誰が鬼になろうが、臨也はいつも――
 誰からも見つかることはなかった。
 いつもいつも、いつまでも。


「――げっ!」
 まずいという露骨な反応。
 無意識のうちに固く閉じた瞼を恐る恐る開けば、硝子の向こうには二人組の男が顔を強ばらせ硬直している。
 ――……なんだ? 何かあったのか……?
 その様子を不審に思った臨也は、身体の自由が制限されている中、できるだけ首を伸ばして外を伺う。
 そして二人の視線の先を辿ると――
「!」
 臨也は自分の目を疑った。
 視線を辿った先に映ったもの。それは、
 スラリとした容姿に、自分と同じ黒髪。
 いかにも女子にモテそうな顔立ち。そして――
 正義感に満ち足りた、眼。
 それの名前は、臨也も、その後ろにいる静雄も知っている。
「し……獅子崎……」
 ――獅子崎一。平和島静雄に次いで、この名前を知らない者はそうそういないだろう。
 喧嘩が強いわりには正義感が人一倍強く、不良校として有名な串灘高校と双璧を成すここ――来神高校の番長的存在である男。
 ――なんで獅子崎先輩が……こんなところに……?
 獅子崎は学校が終わると、近隣にあるエリザベス女学院にいる自分の彼女――夢乃坂アヤメ――の迎えに大抵出向く。
 そんな彼が、なぜ今日、こんな時間まで学校に残っているのだろうか。
 成績優秀である獅子崎が、補修を受けていたとは思えない。
 グルグルと疑問が渦巻く中、獅子崎は――
 一瞬だけ二人組の男から視線を外し、多目的室の中から様子を覗き見る臨也を瞳に映したのだ。
「――っ……」
 それが何を意味するのか、理解したと同時に、全身の毛がぶわりと逆立つのを感じた。
 この時、臨也を支配した感情は、獅子崎という人間への畏れ、ましてや感謝・感動などではない。
 臨也の全身、神経、細胞を駆け巡ったものは――


 怒り、だった。


 獅子崎と目が合ったのはその一瞬で、すぐに視線は二人に戻される。
 糾弾するような眼差しに思わず気圧されたのか、後ろへと身体を逸らす二人組。
 頬には冷や汗がジワリと浮かんでいた。
「よ、お……獅子崎……。どうしたよ、そんな怖い顔して……?」
「わ……忘れ物でも取りにきたのかー? そういや明日提出の課題あったっけ? あの課題さー、ぶっちゃけ……」
 適当な言葉を並べてなんとかはぐらかそうとする少年達だが、嘘は簡単に暴かれる。
 声こそ聞こえなかったが、獅子崎は二人に何かを呟いたようだ。
 その言葉を聞いて、途端に顔を見合わせて慌てふためく二人組。
 浮かべた苦笑は痙笑になっていた。
「ち、違う! これは!」
「三年の燕御先輩が――んがっっ!!!!」
 言い訳の途中、まるで二人の弁解を遮るように、二人の額に時差式で缶ジュースが直撃した。
 扉一枚挟んでいるにも拘わらず、缶ジュースがぶつかったにしては大きく派手な音が鳴り響く。
 まるで銃弾の如き速さでぶつかったそれは、二人組の額にめり込むと、そのまま二人を押し倒した。
 ドタン。瞬殺。
 どうやら二人は、逃げの体勢を取る間もなく意識を失ったようだ。
 静けさが一帯を包み込む中、缶ジュースのみが音を立てて廊下を転がる。
 一方、二名の男子生徒が気絶して倒れているという状況を生み出した張本人である獅子崎はというと、何事もなかったような顔をして、缶コーヒーを片手で回して弄んでいた。
 くるくると高速回転しながら宙を舞っては落下する缶コーヒーは、獅子崎の手のひらで着地を繰り返す。
 4、5回缶コーヒーを宙に舞わせたところで、彼は唐突に方向転換をした。
 臨也と静雄のいる多目的室には目もくれず、獅子崎はどこかへと歩き出す。
 絶えず缶コーヒーを弄びながら、無口な背中を二人に向けて。
 堂々とした足音が徐々に遠退く。
 廊下に丸い反響を残しながら……
 ――やがて音は、完全に消えた。






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